三枝守輝

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三枝 守輝(さいぐさ もりてる、正保4年(1647年) - 宝永元年10月18日1704年11月15日))は江戸時代旗本。父は三枝守全、母は小出三尹の娘[1]。初名は守真(もりざね)、通称は源八郎、内近、右近[1]。官位は従五位下能登守[1]。法名は宗恕[1]。妻は丹波国綾部藩主九鬼隆季の娘、後妻は公卿平松時量[2]の娘[1]。子は源八郎(夭折)、三枝守英(時量の娘との間の子)、女子[1]

生涯[編集]

承応3年(1654年)、8歳の時に初めて徳川家綱御目見した[1]

延宝4年(1676年)、家督を相続して6500石を賜り、500石を弟の三枝守仍に分知した[1]。延宝8年(1680年)に定火消となり、同年のうちに布衣の着用を許された[1]貞享元年(1684年)に小姓番頭となり、従五位下能登守に叙された。貞享2年(1685年)に稲葉正往京都所司代を解任されると、この旨を本人へ伝えに赴いた[1]。貞享3年(1686年)に御書院番頭に就任し、元禄5年(1692年)には大番頭に昇進した[1]。元禄8年(1695年)に守輝の家臣である河村甚右衛門が死罪に処せられ、これを受けて叱責されるがその約1ヵ月後に赦免された[1]。元禄10年(1697年)に領地を改められ、陸奥国岩瀬郡伊豆国加茂郡に合計6500石を賜った[1]

宝永元年[3](1704年)に死去した[1]。享年58[1]。跡を嫡男守英が継いだ[1]


参考[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「寛政重脩諸家譜. 第6輯」による。本文は1004頁、コマ番号は511頁。
  2. ^ 平松時庸の子。正二位権中納言
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』では「寛永元年」とされているが、他の記述から誤植とみられる。