万俟洛

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万俟 洛(ぼくき[1] らく、? - 539年頃)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人は受洛干。本貫太平郡[2][3]費也頭の出身[4]

経歴[編集]

万俟普の子として生まれた。正光5年(524年)、破六韓抜陵が乱を起こすと、万俟洛はこれに従った。のちに父とともに北魏に帰順し、顕武将軍に任じられた。爾朱栄に従って戦功を挙げ、汾州刺史驃騎将軍に累進した。普泰元年(531年)、高歓が起兵すると、万俟洛は父とともに高歓の礼遇を受けた。撫軍となり、霊州刺史を兼ねた。永熙3年(534年)、孝武帝関中に入ると、万俟洛はこれに従って尚書左僕射に任じられた。天平3年(536年)、父に従って東魏に帰順し、建昌郡公に封じられ、領軍将軍となった。元象元年(538年)、諸将とともに独孤信を金墉で包囲し、河橋の戦いにも参加して、ともに功績を挙げた。高歓がかれの父の万俟普をとくに礼遇し、自ら万俟普の乗馬を助けたので、万俟洛は死力を尽くして恩義に報いることを決意した。河橋の戦いにおいて、東魏の諸軍が北方に橋を渡ったとき、万俟洛は一軍を率いて動かず、西魏の軍に対して「万俟受洛干ここに在り、来ることができるなら来てみるがいい」と言い放ったので、西魏の軍はおそれて去ったという。高歓は万俟洛の雄壮を讃え、万俟洛の陣営のあった場所を名づけて迴洛城とした。興和初年、死去した。太師大司馬録尚書事の位を追贈され、を武といった[5][3]

脚注[編集]

  1. ^ 万俟」を「ボクキ」と読むのは、この複姓(漢姓を参照)においてのみ見られるものである。
  2. ^ 北斉書 1972, p. 375.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 1900.
  4. ^ 『魏書』尒朱天光伝に「時費也頭帥紇豆陵伊利、万俟受洛干等據有河西」とあり、『周書』賀抜岳伝に「費也頭万俟受洛干」とある。
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 375–376.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4