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ヴィルヘルム4世 (ヴァイマル伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム4世
Wilhelm IV.
ヴァイマル伯
マイセン辺境伯
テューリンゲン辺境伯
在位 ヴァイマル伯1039年 - 1062年
マイセン辺境伯1046年 - 1062年
テューリンゲン辺境伯:1046年 - 1062年

死去 1062年
家名 ヴァイマル家
父親 ヴァイマル伯ヴィルヘルム3世
母親 オーダ・フォン・ラウジッツ
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ヴィルヘルム4世(Wilhelm IV., 生年不詳 - 1062年)は、ヴァイマル伯(在位:1039年 - 1062年)、マイセン辺境伯(在位:1046年 - 1062年)、テューリンゲン辺境伯(在位:同)。ヴァイマール伯ヴィルヘルム3世ラウジッツ辺境伯ティートマール2世の娘オーダの子。

生涯

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マイセン辺境伯エッケハルト2世が亡くなると、マイセン辺境伯領を授けられた。さらに彼は、母オーダがオストマルク辺境伯デード2世と再婚して継息子となっていたため、オストマルク辺境伯の地位をも与えられていたと推測され、そうであれば、エッケハルト1世がその手中にしていた地位のすべてを、彼が引き継いだことになる(継父デード2世はエッケハルト1世の娘マティルデの息子)。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の死後は未亡人アグネスに忠実に仕え、その名声を高めた。彼はハンガリーエンドレ1世を助け、その弟ベーラ1世にむかう軍の総指揮官となり、ナウムブルク司教エッポが補佐にあたった。しかし、ヴィーゼルブルクの近くで奇襲を受け抵抗を試みたが、両指揮官とバイエルン伯ボートは捕虜の身となってしまった。だが、ヴィルヘルムの勇敢さに感銘を覚えたベーラ1世の息子ゲーザは彼を解放するばかりか、娘のゾフィーと結婚させるようベーラ1世を説き伏せた。翌1062年にヴィルヘルムが帰途に病を患い亡くなったため、ゾフィーは家に連れ戻された。子が無かったため、遺領は弟のオットーが相続した。

参考文献

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  • Heinrich Theodor Flathe (1898). "Wilhelm (Markgraf von Meißen)". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 43. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 117–118.
先代
エッケハルト2世
マイセン辺境伯
1046年 - 1062年
次代
オットー