ヴァシリー・ペロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Wancdk (会話 | 投稿記録) による 2020年12月6日 (日) 07:32個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ヴァシリー・ペロフ
自画像
誕生日 (1834-01-02) 1834年1月2日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国トボリスク
死没年 1882年6月10日(1882-06-10)(48歳)
死没地 ロシア帝国モスクワ
教育 モスクワ絵画彫刻建築学校
テンプレートを表示

ヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ: Васи́лий Григо́рьевич Перо́в, : Vasilii Grigor'evich Perov1834年1月2日ユリウス暦1833年12月21日〉 - 1882年6月10日〈ユリウス暦1833年5月29日〉)は、ロシア画家[1]。「ヴァシーリー」は「ワシーリー」[2]、「ペロフ」は「ペローフ」[1]とも表記される。

経歴

ロシア帝国トボリスクで誕生した[3]。父親は検察官[3]。彼は1846年にアルザマスにあるアレクサンダルストウピン美術学校に通う、この頃、腕前の良さによってニックネームとして「筆」«перо» にあやかったペロフの名を受けた[3]。1853年に名門モスクワ絵画彫刻建築学校に入学、主にセルゲイ・ザルヤンコのもとで学ぶ、1861年に修了した。1856年、帝国美術アカデミーで発表したスケッチで小銀勲章を受賞した。 1861年に絵画「村の説教」で大金勲章を受賞、海外旅行の給費金を受け取った。1862年にエレーナと結婚した。同年に西欧諸国へと旅発ち、ドイツのベルリンドレスデンデュッセルドルフといった数々の都市を訪問、その後、フランスのパリに向かった。この旅行中、彼はヨーロッパの街の生活場面等をたくさん描いた。1864年の秋にモスクワに戻り、妻の叔父の家に住んだ。1866年、アカデミー会員の称号を受け、1871年にモスクワ美術学校の教授になった。同時期に移動派へ参加。1882年、結核によって亡くなり、亡骸はモスクワにあるドンスコイ墓地に埋葬された。

主な作品

脚注

外部リンク