ルヴフ・ゲットー
ルヴフ・ゲットー(波:Getto lwowskie)・レンベルク・ゲットー(独:Ghetto Lemberg)・リヴィウ・ゲットー(ウクライナ語:Львівського гетто)は、ナチス・ドイツがルヴフ(当時はポーランド総督府領。現在はウクライナ領でリヴィウという)に設置したゲットー(ユダヤ人隔離居住区)である。ポーランド総督府領に設置されたゲットーの中では三番目に人口が多かった(一番はワルシャワ・ゲットー、二番目はウッチ・ゲットー)。
歴史
[編集]1939年9月、ドイツ軍とソ連赤軍によるポーランド侵攻後、ポーランドのルヴフはドイツ軍によって占領された。独ソ不可侵条約の秘密協定に基づき、ドイツはソ連にルヴフを引き渡した。以降、しばらくルヴフはソ連によって支配されていたが、1941年6月にドイツ軍がソ連軍のポーランド占領地域へ進攻を開始(独ソ戦)すると、ルヴフもドイツ軍によって占領された。ルヴフは1939年9月以来、ドイツ軍のポーランド占領地域に設置されていたポーランド総督府の領域に組み込まれることとなった。
当時、ルヴフには11万人のユダヤ人が暮らしていた。1941年11月に、ルヴフ・ゲットー建設の命令が下った。命令では12月までに建設せよとのことだったが、完成したのは1942年8月だった[1]。
ルヴフ・ゲットーはラインハルト作戦で絶滅収容所へ移送された最初のゲットーだった。1942年3月からゲットー住民の移送が開始された。1942年8月には激しい移送が行われ、65,000人のユダヤ人がベウジェツ絶滅収容所へと移送された。数千人だけがレンベルク=ヤノフスカ強制労働収容所(de:Zwangsarbeitslager Lemberg-Janowska)へ移送され、強制労働に従事した[2]。なおルヴフ・ゲットーのユダヤ人評議会議長ヨーゼフ・パルナスはゲットー住民の移送に反対し、ドイツ当局によって銃殺されている[3]。
1944年7月にソ連赤軍が再びルヴフを占領したが、ルヴフ・ゲットーにはもはや数百人しか残っていなかった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(ミネルヴァ書房)70ページ
- ^ アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館
- ^ マイケル ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)181ページ
参考文献
[編集]- マイケル ベーレンバウム著、石川順子訳、高橋宏訳、『ホロコースト全史』、1996年、創元社、ISBN 978-4422300320
- 栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』、1997年、ミネルヴァ書房、ISBN 978-4623027019