ラナ・バハドゥル・シャハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラナ・バハドゥル・シャハ
Rana Bahadur Shah
ネパール国王
ラナ・バハドゥル・シャハ
在位 1777年 - 1799年
戴冠式 1778年1月

出生 1775年5月25日
カトマンズハヌマン・ドーカ宮殿
死去 1806年4月25日
カトマンズハヌマン・ドーカ宮殿
配偶者 ラージ・ラジェシュワリー・デビー
スバルナ・プラバー・デビー
カンティワティー・デビー
ラリト・トリプル・スンダリー・デビー
ほか
子女 ラノディヨート・ビクラム・シャハ
ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ
ほか
王朝 ゴルカ朝
父親 プラタープ・シンハ・シャハ
母親 ラジェンドラ・ラージャ・ラクシュミー・デビー
宗教 ヒンドゥー教
テンプレートを表示

ラナ・バハドゥル・シャハ(Rana Bahadur Shah, 1775年5月25日 - 1806年4月25日)は、ネパール王国の第3代君主(在位:1777年 - 1799年)。父は第2代君主プラタープ・シンハ・シャハ

生涯[編集]

1775年5月25日、ネパール王プラタープ・シンハ・シャハの息子として生まれた[1]

1777年11月17日、父王プラタープ・シンハ・シャハの崩御に伴い、2歳で即位[1][2]。母親ラジェンドラ・ラクシュミー皇太后が摂政を務めるが、1785年に死去。

その後、叔父バハドゥル・シャハが摂政となる。この期間、二四諸国を次々に制圧、ガルワール地方クマーウーン地方に進出し、領土を拡大した[3]

1799年、溺愛する内妃の生んだカンティワティー・デビーの生んだ幼い息子のギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハに位を譲り、出家して禁欲主義者となる[1][4]。 だが、この譲位は嫡子ラノディヨート・ビクラム・シャハを差し置いての譲位であったため反対が多く、重臣ら95名に譲位を認める起請文を書かせたうえ、その戴冠式にはパルパプリトヴィーパーラ・セーナも招待した[4]

ラナ・バハドゥルはギルバン・ユッダに譲位したのち出家し、愛妃カンティワティーとともにデウパタンに移って院政をするつもりであった[5]。だが、まもなくカンティワティーは病に倒れたため、ラナ・バハドゥルはブラーフマナの助言に従ってパタンに移り住み、神々へのあらゆる礼拝供養、多額の布施行を行った[5]

しかし、その甲斐も虚しく、同年10月31日にカンティワティーは死去した[1]。この死へのラナ・バハドゥルの怒りはすさまじく、神やブラーフマナを罵り、神像を破壊するなど過激な行動に走るほどだった[5]

そのため、ダモダル・パンデキルティマン・シンハ・バスネットらは王を奉じ、首都をヌワコートに移した。法王は軍をヌワコートに向かたが、軍は王やダモダルらについたため、1800年に法王はビムセン・タパをはじめとする重臣らとともにヴァーラーナシーへ赴いた[6]

1804年、ラナ・バハドゥルはカトマンズに戻り、ダモダルは再び法王と対決した[6]。だが、今度は軍が法王の側についたため、ダモダルは2人の子供とともに処刑された[6]

同年に計略でパルパを制圧し、ネパールを統一した。その後、アマル・シンハ・タパの軍がガルワール、デラドゥンを制圧し、1805年以降はサトレジ川にまで進撃した[4]

1806年2月、ギルバン・ユッダにムクティヤール(執権)に任命されたが、4月25日に弟のシェール・バハドゥル・シャハに刺殺された[1][7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Nepal 6
  2. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.503
  3. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.504
  4. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.507
  5. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.508
  6. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.509
  7. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.511

参考文献[編集]

  • 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。 

関連項目[編集]