ミールザー・アバー・バクル

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1494年ウルゲンチの攻略に失敗するアブー・バクル(『バーブル・ナーマ』の細密画

ミールザー・アブー・バクル・ドゥグラトペルシア語: ميرزا أبو بكر دوغلات, ラテン文字転写: Mirza Abu Bakr Dughlat, 生没年不詳)は、ドゥグラトアミール。その事跡は従甥にあたるミールザー・ハイダル・ドゥグラトが著した『ターリーヒ・ラシーディー』に記されている。

生涯[編集]

サニズ・ミールザー英語版の長男[1]で、ムハンマド・ハイダル・ミールザー・ドゥグラト英語版の孫にあたる。1465年ヤルカンドを拠点として西カシュガルモグーリスタン・ハン国から独立した政権を建て、ホータンも支配した。1479年から1480年にかけて、モグーリスタンの君主であるユーヌスの侵攻を撃退し、1480年にはカシュガルを占領した[2]1499年、ユーヌスの次男であるアフマド・アラクにカシュガルを奪われるがすぐに取り戻した。しかし、1514年スルターン・サイード英語版(アフマド・アラクの次男)にカシュガルを奪取された。ヤルカンドとホータンもスルターン・サイードに奪われることを恐れたアブー・バクルは跡目を長男のジャハーンギール・ミールザー英語版に譲って[3]ラダックに逃亡し[4]、当地で没した。

家族[編集]

フスン・ニガル・ハヌム(エセン・ブカの次女)と、マフムード・ミールザー英語版アブー・サイードの次男)の長女であるハンザダ・ベグムの2人を妻とし、ジャハーンギール、トゥーラーンギール、ブスタンギールの3男を儲けた。

出典[編集]

  1. ^ Haidar 2008, p. 99
  2. ^ Haidar 2008, p. 105
  3. ^ Haidar 2008, p. 325
  4. ^ Adle, Habib & Baipakov 2004, p. 327

参考資料[編集]

  • Mirza Muhammad Haidar Dughlt (2008/01/01). N. Elias. ed. A History of the Moghuls of Central Asi: The Tarikh-i-Rashidi. E. Denison Ross. trans. (Reprint ed.). Cosimo, Inc.. ISBN 978-1605201504 
  • Chahryar Adle; Irfan Habib; Karl M. Baipakov (2004/3/1). History of Civilizations of Central Asia: Development in contrast : from the sixteenth to the mid-nineteenth century. UNESCO. ISBN 92-3-103876-1