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蹋頓

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(とうとん、? - 建安12年(207年))は、中国後漢末期の人物。遼西烏桓(烏丸)の大人(単于)。またはともいう。丘力居の従子。『三国志』では「烏丸鮮卑東夷伝」などに記録がある。

生涯

丘力居の死後、子の楼班が幼かったため、その後を継いで部族を統率し、上谷烏桓の難楼・遼東属国烏桓の蘇僕延・右北平烏桓の烏延を配下に置いた。

頓は武勇に優れた人物で、命令はよく行き届いた。

袁紹公孫の抗争がまだ続いていた時、頓は袁紹と早くから誼を通じ、自らの精鋭騎兵部隊を援軍として送り込んで協力した。袁紹は公孫を破ると朝廷の命令を偽造し、蹋頓らに印綬を与えた上で各々を単于に任命した。

楼班が成長すると、蘇僕延は楼班を奉じて単于に擁立し、頓を王とした。

袁煕袁尚兄弟が逃れて来るとそれを匿ったため、206年曹操の攻撃を受けた。柳城の100里前にある白狼山で張遼を先鋒とした曹操軍と遭遇し、袁尚と共に勇敢に戦うが曹操の軍略の前に敗れ、烏桓軍は大敗した。頓は虎豹騎を率いていた曹純に捕縛され斬られた。

速附丸・楼班・烏延らは袁尚と共に遼東に逃げ込んだが、太守公孫康により袁尚らと共に殺害されている。これにより三郡の烏桓は破れ、残った代郡の烏桓も降伏。その後、烏桓族は曹操に服属し、騎兵を提供するなど有力な兵力供給源となった。

小説『三国志演義』では袁紹と友好関係にあった事から、袁煕・袁尚らが曹操に敗れて頼って来ると、袁尚に協力して曹操と戦う。最後は張遼に敗れて斬り殺される事になっている。

参考資料

  • 『三国志』