チャールズ・ハットン・グレゴリー

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チャールズ・ハットン・グレゴリー
Charles Hutton Gregory
生誕 1817年10月14日
ロンドンウーリッジ
死没 1898年1月10日(1898-01-10)(80歳)
ロンドン
国籍 イギリスの旗 イギリス
業績
専門分野 土木技術者
所属機関 イギリス土木学会 会長
成果 腕木式鉄道信号機
受賞歴 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー
署名
ロンドン、ブロンプトン墓地の墓標。

サーチャールズ・ハットン・グレゴリー(Sir Charles Hutton Gregory KCMG1817年10月14日 - 1898年1月10日[1]は、イングランド土木技術者1867年12月から1869年12月にかけてイギリス土木学会会長を務めた[2]

チャールズは、ウーリッジにある王立陸軍士官学校の数学教師であったオリンサス・ギルバート・グレゴリー英語版博士の息子であった。当時、士官学校の数学の主任教師はチャールズ・ハットン英語版で、グレゴリー博士のパトロンになっていた。このハットンにあやかって、チャールズは命名された[1]

グレゴリーは、コンサルタント技術者として、セイロントリニダードケープ植民地ペラ州セランゴール州などで、いくつもの大規模な鉄道建設事業に関わった[1]。彼は、腕木式鉄道信号機を最初に実用化し、1842年から1843年にかけてロンドン・アンド・クロイドン鉄道サウス・イースタン鉄道英語版にこれを導入した。彼の方式は、他の方式をすべて凌駕し、1870年以降は主流の方式となった[3]1882年、海峡トンネル委員会の委員となり、1886年には植民地・インド博覧会のロイヤル・コミッショナー (Royal Commissioner) となった。

グレゴリーは、1876年聖マイケル・聖ジョージ勲章コンパニオンを受章し[4]、後に1884年5月には同章ナイト・コマンダーを受章した[5]

1894年、彼は女優だったファニー・スターリング英語版と結婚したが、翌年に彼女に先立たれてしまった[6]。グレゴリーは、1898年1月10日にロンドンで死去し、ブロンプトン墓地に葬られた[1]

おもな著書[編集]

  • Practical Rules for the Management of a Locomotive Engine: In the Station, on the Road, and in cases of Accident (London, 1841)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d New York Times Obituary (January 11 1898)
  2. ^ Watson, Garth (1988), The Civils, London: Thomas Telford Ltd, p. 251, ISBN 0-7277-0392-7 
  3. ^ The Origin of Railway Semaphore
  4. ^ "No. 24305". The London Gazette (英語). 14 March 1876. p. 1899.
  5. ^ "No. 25233". The London Gazette (英語). 24 May 1883. p. 2731.
  6. ^ Hartley, Cathy (英語). A Historical Dictionary of British Women. Routledge. p. 413. ISBN 9781135355333. https://books.google.com/books?id=pFGR2OvCAS4C&pg=PA413 2016年8月29日閲覧。 

外部リンク[編集]


非営利団体
先代
ジョン・ファウラー
イギリス土木学会会長
1867年12月 – 1869年12月
次代
チャールズ・ブラッカー・ヴィグノールズ英語版