コンテンツにスキップ

ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Luckas-bot (会話 | 投稿記録) による 2011年11月27日 (日) 20:45個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: he:גלאצו ויסקונטי השני)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ガレアッツォ2世

ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ(Galeazzo II Visconti, 1321年 - 1378年)は、中世イタリアミラノの名族ヴィスコンティ家の専制君主(僭主)。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの父。

決して無能ではなく、むしろ君主としては有能なほうであったが、長年にわたって病弱で関節炎を患っていたため、弟のベルナボと共同統治を行なう一方で、ミラノを東西に分割して自身は西半分、弟は東半分の領地を経営する体制をとった。また、フランスイングランドの王家との政略結婚によるミラノの地位安定を図り、これに成功を収めた。これは後にジャンが勢力拡大を行なうときに役立っている。

政治家として有能な一方、文化に対する造詣も深い教養人であり、特に建築に熱心であった。桂冠詩人のペトラルカとも親交があったと言われている。1378年、58歳で死去し、後を息子のジャンが継いだ。

関連項目