オノーレ・ミラボー
オノレ・ガブリエル・ド・リケッティ, ミラボー伯爵(仏: Honoré-Gabriel de Riquetti, Comte de Mirabeau, 1749年3月9日 - 1791年4月2日)はフランス革命初期の中心的指導者である。一般的には、単にミラボーと呼ばれる。愛称は「政略のミラボー」[要出典]
ミラボー侯爵の次男で、革命前から学識と放蕩者としての評判ですでに庶民の間でも有名であり、1789年の全国三部会では、貴族の出身として第二身分議員の資格もあったが、第三身分議員としても選出され、本人は二つの当選から敢えて第三身分議席を選んで会議に臨んだ。
ブルジョワ的立場から初期の革命を主導し(イギリス型)立憲君主制を主張したが、同じ開明貴族のラファイエットや三頭派ら政敵の妨害によって、念願であった大臣就任はいつも阻まれた。雄弁と、その開放的な庶民性から国民に絶大な人気があったものの、絶頂期に突如として病死し、死後、ルイ16世と交わした書簡と、多額の賄賂の存在が暴露されて、名声は地に落ちることになった。
一方で、ミラボーという、強力な王制護持論者の死によって、王室は立憲議会との太いパイプを失った。革命の進展に対する不安に駆り立てられたルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、王妃の実家であり敵国であもあるオーストリアに助力を求め、国王一家亡命未遂事件を起こすが、この事件は国王と王室に対する民衆の信頼を失墜させ、革命のさらなる急進化を誘い、その後の8月10日事件、ひいてはルイ16世、マリー・アントワネットのギロチンによる処刑、ブルボン王政の終焉に繋がった。
参考文献
- ミラボーとフランス革命 井上幸治 木水社, 1949