アレクシス (ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Bcxfubot (会話 | 投稿記録) による 2022年4月15日 (金) 19:35個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (外部リンクの修正 http:// -> https:// (books.google.com) (Botによる編集))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

アレクシス
Alexis
ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯
在位 1854年 - 1905年

出生 (1829-09-13) 1829年9月13日
シュタインフルト
死去 (1905-08-16) 1905年8月16日(75歳没)
ヘルレスハウゼン
配偶者 ルイーゼ・フォン・プロイセン
家名 ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト家
父親 ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯カール
母親 ゾフィー・ツー・ベントハイム=シュタインフルト
テンプレートを表示

アレクシス・ヴィルヘルム・エルンストAlexis Wilhelm Ernst von Hessen-Philippsthal-Barchfeld, 1829年9月13日 - 1905年8月16日)は、ドイツの諸侯家門ヘッセン家の一員で、ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯家の当主(在位:1854年 - 1905年)。

生涯

ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯カールとその2番目の妻でベントハイム=シュタインフルト侯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムの娘であるゾフィーの間の第3子、三男として生まれ、1854年に方伯家の家督を継いだ。プロイセン軍の形式上の騎兵大将であり、1866年よりカッセル市の市議会(Kommunalstände)議員、また黒鷲勲章の受章者だった。

バルヒフェルト方伯家の属するヘッセン選帝侯国は1866年の普墺戦争の結果、プロイセンに併合された。アレクシスは1880年にヘッセン選帝侯国に所有していた家族世襲財産(Familienfideikommiss)を放棄し、それと引き換えに兄脈のヘッセン=フィリップスタール方伯家の当主エルンストと共同でフィリップスタール一族の個人財産(Privatfideikommiss)として年金30万マルク、ハーナウ城(Stadtschloss Hanau)、ローテンブルク城(Schloss Rotenburg)およびシェーンフェルト城(Schloss Schönfeld)を与えられた。

アレクシスは1854年6月24日にシャルロッテンブルク宮殿で、プロイセン王子カールの娘ルイーゼと結婚した。夫妻の間に子供は無く、ヘッセン選帝侯の領邦教会首長としての権能により(„kraft oberbischöflicher Gewalt durch landesherrlichen Ausspruch des Kurfürsten von Hessen“ )、1861年3月6日に2人の離婚が宣言された。家督は弟ヴィルヘルムの息子クロートヴィヒが引き継いだ。

脚注


参考文献

外部リンク

先代
カール
ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト方伯
1854年 - 1905年
次代
クロートヴィヒ