Wikipedia:秀逸な記事の選考/フィンセント・ファン・ゴッホ 20130916

フィンセント・ファン・ゴッホ[編集]

賛成/条件付賛成/保留/反対 4/0/0/0 この選考は選考基準の賛成票のみ3票以上を満たしています。2013年12月18日 (水) 17:42 (UTC)(2013年12月19日 (木) 02:42 (JST))までに異論がなければ、この項目は秀逸な記事となります。

(ノート) 《推薦理由》自薦です。前回選考(他薦)はWikipedia:秀逸な記事の選考/フィンセント・ファン・ゴッホです。前回からの改善点は、(1)英語版からの翻訳に相当程度依拠していた内容を見直し、日本語の参考文献を複数突き合わせ、その内容を盛り込んだこと、それに伴い、直接参照できなかった英語文献を極力整理し、直接参照できた日本語・英語文献で置き換えたこと、(2)特に後世の評価史と美術史的な説明を盛り込んだこと、(3)ゴッホ自身の言葉についてはできるだけゴッホ美術館の書簡集に当たって、そのリンクも脚注に付加したこと、(4)赤リンク・仮リンクの解消に努めたことなどです。客観的な記述になるよう努めましたが、ゴッホの内面を窺わせるようなエピソードや言葉も可能な範囲で取り入れました。画像、地図、出典の充実も含め、一応の目安に達したのではないかと考え、自薦させていただきます。 ゴーヤーズ会話2013年9月16日 (月) 01:58 (UTC)[返信]

  • 賛成 : 秀逸な記事だと思いますので賛成します。ちなみに有名オークションの表にあるFとJHに内部リンクをつけました。後節に説明がありますが、順に読んでいって分からなかったので。Yapparina 2013年9月28日 (土) 09:36 (UTC)
  • 条件付賛成(条件:済) 冒頭・概要にも、どのように印象派と違うのかの、簡単な説明が必要でないかと思います。冒頭・概要に作風についての記述はありますが、この書き方では美術史に詳しい人でないと、印象派と関連付けた理解ができないです。『ブリタニカ国際大百科辞典』に記述されているトピックで、冒頭・概要にないのはこれだけです。 --Yhiroyuki会話2013年10月2日 (水) 18:06 (UTC)[返信]
    賛成 加筆ありがとうございます。 --Yhiroyuki会話2013年10月5日 (土) 12:47 (UTC)[返信]
  • 条件付賛成 本来私が読んで票を投じてよい記事ではないような気もしますが、他に意見も出ないようですので、一通り読ませていただきました。ゴッホ美術館ウェブサイトによる生涯の紹介と比較して、重点の置き方で異なっている点が多少あれども、基本的なところで何か抜けがあるとか大きなミスがあるということはないと思われます。以下、細かいことばかりですが、気になったところを指摘します。修正されるか、納得のいく説明があれば賛成にします。--Tam0031会話2013年10月27日 (日) 15:34 (UTC)[返信]
    • 「概要」節で、制作した絵を「その中には、自画像、風景画、花の静物画、肖像画、糸杉・小麦畑・ひまわりなどの絵がある」としています。並列してあるもののうち、前の方は絵画の分野であるのに対して、後の方はかなり具体的になっていて、これを単に並べるのは不思議な感じがします。特に「ひまわり」は直接特定の絵の記事へのリンクになっています。後段を見ると主なモチーフという感じですよね。制作した絵の分野を概括して、その後で主なモチーフあるいは代表作を挙げる、のように明確に分ける構成に直した方がよいのではないでしょうか。
    • 「手紙」節が「生涯」節より前にあるのはちょっと違うと思います。人物記事ならば、「概要」節は別として、まず生涯を時代順に追った記述が最初の節に来るのが自然だと思います。「手紙」節がこの位置にある必然性を見出せませんでした。
    • 「グーピル商会(1869年-1876年)」の節で、1876年1月に「彼はグーピル商会から4月1日限り解雇するとの通告を受けた」とあります。しかし手紙4を読むと、"I would leave on 1 April"とあり、4月1日にはもう辞めてグーピル商会を離れているのではないでしょうか。4月1日「限り」と書くと、4月1日までは勤めて2日から離職、という印象を受けます。
    • 「ハーグ(1882年-1883年)」節にある注釈9ですが、金額の記載がそれまでフランだったのに、増額された送金金額は150ドルとなっています。フランの間違いではないでしょうか。
    • 「死(1890年7月)」の節、フィンセントの葬儀にはテオは参列しなかったのでしょうか?
丁寧なご指摘ありがとうございます。いずれももっともと思われたため、修正しました。--ゴーヤーズ会話2013年11月18日 (月) 14:27 (UTC)[返信]
賛成 指摘事項が修正されていることを確認しました。私としては賛成とします。以降の指摘事項もクリアして、選考を通過することを期待します。--Tam0031会話2013年11月18日 (月) 15:21 (UTC)[返信]
  • 条件付賛成 ゴッホの書簡など多数の資料を参照して書かれた、質量ともに高い、秀逸な記事にふさわしい水準の記事だと思います。ゴッホは、日本においても人気のある画家で、多くの日本語文献がありますが、そのうちの入門書を用いて、検証することにしました。検証には、木下長宏の『ゴッホ -戦う画家-』(六曜社、2002年)を使用しました。その結果、以下の点以外には特に問題はみあたりませんでした。これらの点が解決すれば、賛成に切り替えますので、よろしくお願いいたします。
    • (済み12/7)(?12/1) 出生、少年時代(1853年-1869年)節で、ゴッホが生まれた村は「ズンデルト」ではなく「フロート・ズンデルト」が正しいと思いますが(木下p107)、いかがですか(英語版記事でも「Groot-Zundert」。ちなみに、オランダ語で「Groot」を「グロート」とするのは誤り)。
    • (済み12/1) 出生、少年時代(1853年-1869年)節で「画家フィンセントが生まれるちょうど1年前に、死産の子があり」とありますが、木下は「生まれて間もなく亡くなった」と述べ、さらに「死産説もある」と述べています(木下p107)。「死産」と断定して大丈夫でしょうか。
    • (済み12/1) グーピル商会(1869年-1876年)節で、フィンセントのロンドン支店転勤を「1873年5月」としていますが、木下は「1873年6月13日」としています(木下p107)。どちらが正しいのですか。
    • (済み12/1) 聖職者への志望(1876年-1880年)節で、ゴッホは1877年5月初旬まで書店で働いたとありますが、木下によれば書店を辞めたのは3月となっています(木下p107)。どちらが正しいのでしょうか。
    • (済み12/1) 聖職者への志望(1876年-1880年)節で、1880年7月~10月、「この時から、テオからフィンセントへの生活費の援助が始まった」とありますが、木下によると、1881年のブリュッセルにいる頃に「テオからの金銭的援助が始まる」とあります(木下p107)。どちらが正しいのでしょうか。
    • (済み12/1) ゴーギャンとの共同生活節で、ゴッホとゴーギャンがモンペリエに行ったのは「12月中旬(16日頃)」としていますが、木下によると「12月17日」となっています(木下p109)。研究者の見解に幅があるのでしょうか。「17日とする説もある」等補記が必要に感じましたがいかがでしょうか。
    • (済み12/7) 死(1890年7月)節で、フィンセントの死後、テオは「フィンセントの回顧展を実現しようと動き始めた」とありますが、これは実現したのですか。この時期、木下によると「1890年9月22日-9月24日、パリのテオのアパルトマンで遺作展」とありますが(木下p110)、この遺作展が該当するのですか。
    • (済み12/7) 死(1890年7月)節で、ヨーがテオの遺骨をオーヴェルに移すのに、フィンセントが死去してから四半世紀も要しています。その間のことには触れた方がよいと思います(英語版には書かれています)。
    • (済み12/7) 1890年代の評価節で「1892年12月、ヨーが~122点の回顧展を実現」とありますが、木下によると、「1891年、テオの遺した義兄の作品展を、ヨーは、ハーグ、アムステルダムで開く」とあります(木下p110)。先行しているこちらの作品展には触れなくてよいですか。
    • (済み12/1) 1890年代の評価節で「1893年、ベルナールが「メルキュール・ド・フランス」紙上でゴッホの書簡の一部を公表」とありますが、木下によると1892年に「ベルナール、・・・ベルナール宛の書簡を雑誌『現代の人びと』に公表」とあります(木下p110)。先行しているこちらの事象には触れなくてよいのですか。
    • (済み12/1) 贋作、偽作についてはわずかに、社会的受容と伝説の流布(20世紀前半)節の「1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった」とあるだけですが、ゴッホの作品の真贋については、いろいろ騒動になっているので(木下p102-103)、記述が少なすぎる観があります。加筆を望みます。
    • (済み12/7) 社会的受容と伝説の流布(20世紀前半)節に関して、木下によれば、1904年、ドイツの雑誌で書簡の紹介、1905年、ベルリン、ハンブルグ、ドレスデンでゴッホ展、1906年、オーストリアのウィーンでゴッホ展、というように画家本人が活動した国以外にも広がりを見せています(木下p110)。このことにも触れた方がいいと思います。
    • (済み12/11)(?12/7) 社会的受容と伝説の流布(20世紀前半)節において、精神医学的研究に触れていますが、結局、ゴッホの精神病の病名はなんだったのでしょうか。そして、その狂気と芸術の関係、家族や周囲の人の反応はどんな感じだったのでしょうか。また、ゴッホ自身は狂気をどうとらえていたのでしょうか。木下によると、ゴッホの狂気はいろいろ論じられているようなので(木下p100)、このあたりの記述も必要ではないでしょうか。
    • (済み12/1) 日本での受容節について、ゴッホが日本に紹介されたの年は1910年が最初ということでよいのでしょうか。雰囲気的にはそのような感じですが、記述としては曖昧な感じがします。また、ゴッホのことを最初に言及したのは森鴎外でしょうか。ちなみに、木下によると、日本最初の「評論」は斉藤与里によるとのことです(木下p59)。
    • (済み12/1) 日本での受容節に「第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ゴッホやセザンヌに傾倒」とありますが、木下によると、ヒュウザン会はわずか2回をもって終わり、岸田劉生ももはやゴッホに見向きもしなくなるとあります。また、木下は、他の日本の画家も同様に、「ゴッホは尊敬するが、ゴッホのような絵は描かない」と述べています(木下pp90-91)。このあたりを補う必要があるのではないでしょうか。
    • (済み12/1) 日本での受容節に関連して、木下によると、1913年に日本初のゴッホ画集『ゴーホ画集』(日本洋画協会出版部)が刊行されたとありますが(木下p101)、このことに触れなくてよいのでしょうか。
    • (済み12/1) 手紙節に関連して、手紙は、木下によれば、作品の制作年代日付決定の裏付けや製作意図を探る重要な資料・手掛かりとして利用されてきたとのことですが(木下p28)、このことは触れなくてよいですか。
    • (済み12/1) カタログ節で、ラ・ファイユによる最初のゴッホの全作品カタログを「1928年」としていますが、木下は「1927年」としています(木下p110)。どちらが正しいのでしょうか。
以上、ご確認をお願いいたします。--Whaa会話2013年11月18日 (月) 09:45 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。対応に時間がかかるかもしれませんが、検討します。--ゴーヤーズ会話2013年11月18日 (月) 14:27 (UTC)[返信]
コメント 五月雨式になりますが、分かるところから回答します。
  • ゴッホが生まれたのはズンデルトの中の中心部分を占めるフロート・ズンデルト(大ズンデルトの意)地区です。Klein Zundert(小ズンデルト)と区別するためにこう呼ばれているとのこと (Naifeh p.19)。したがって「ズンデルト」として間違いなく、ウィキペディアの項目としても「フロート・ズンデルト」まではないので、そこまで細かく記載する必要はないように思います。
  • 真贋問題につき加筆しました。手紙の資料性も加筆しました。
  • ロンドン支店への異動は、パリ経由で、パリ行きの電車に乗ったのが1873年5月12日、パリで数日過ごしてロンドンに渡っています (Naifeh p.82-83)。ゴッホ美術館の書簡集(書簡No.9)の注でも、ロンドン支店で働き始めたのは5月19日又はそのすぐ後とされていますので、5月で間違いないと思います。木下年譜の「6月13日」というのは、ゴッホのロンドンから初めての書簡が6月13日ですので、それとの混同かもしれません。しかし6月13日の書簡では既に腰を落ち着けていることが窺えます。--ゴーヤーズ会話2013年11月25日 (月) 13:16 (UTC)[返信]
  • ドルトレヒトの書店をやめた時期ですが、1877年4月上旬に生地ズンデルトや実家エッテンに旅したり(イースターの休暇に合わせてと思われる)していますが(Naifeh p. 152)、住所は引き続き(実家のあるエッテンではなく)ドルトレヒトであり、5月2日にドルトレヒトを去っています (Naifeh p. 156)。4月23日の手紙(No.112)でも書店の経営者Braat氏の話が出てきますし、その注10には「上司は代わりが入ってくるまでゴッホを行かせたがろうとしなかった」とあります。3月に退職したという木下年譜の根拠は不明といわざるを得ません。--ゴーヤーズ会話2013年11月25日 (月) 14:00 (UTC)[返信]
  • テオからの生活支援の開始時期ですが、1880年6月にテオから最初の援助である50フランが送金されているようであり (Naifeh p.216)、6月下旬の手紙(No.155)にもそのことが触れられています。Naifeh p.216は、この時からテオへの経済的依存が始まったとしています。ただ、最初は単発の援助で、それ以外は主に父親が負担していたのが、テオによる全面的負担に変化したのはブリュッセル時代の1881年2月頃(手紙No.163、注4)のようです。したがって、いずれの時点をとるかは評価の仕方によると思いますが、以上のような経緯を細かく書き分けるほどの実益はないのではと考えています。--ゴーヤーズ会話2013年11月26日 (火) 10:38 (UTC)[返信]
  • モンペリエ訪問の日は、12月16日あるいは17日のいずれかのようです(手紙No.726、注1)。本文に反映しました。
  • ド・ラ・ファイユのカタログ発刊時期ですが、複数の情報源で一致して1928年としており([1][2])、1928年と考えられます。なお、英語版WPのen:Otto Wackerの記事によれば、1928年1月のカタログ発刊に合わせてカッシーラー展が企画されたとあります。1927年とする木下年譜の根拠は不明であり、何か情報が得られれば反映したいとは思いますが、基本的には1928年と考えてよいと思います。--ゴーヤーズ会話2013年11月26日 (火) 11:42 (UTC)[返信]
  • 日本での受容節につき、森鷗外による言及は最初期のものといえますが、ゴッホを日本で最初に紹介したのが鷗外、とまで断言できるかは現時点でよく分かりません。そこまで最初の言及を断定する必要があるでしょうか。斎藤の評論、岸田の「卒業」、ゴーホ画集については本文ないし脚注で加筆しました。
  • ゴッホの「兄」が死産かどうかについて、ズンデルト村役場の記録に"Levenloos"(英語でlifeless)と記載されているとのことです。このことから、ゴッホ研究の権威マルク・エド・トラルボーは死産(stillborn)と解釈しており、他の多くの研究も同様に死産と解釈しています。しかし生後間もなく死亡との説もあるようですので、注に付記しました。--ゴーヤーズ会話2013年11月27日 (水) 12:08 (UTC)[返信]
  • ベルナールによる手紙の公開時期ですが、ゴッホ美術館による詳細な解説[3]によると、ベルナールは1891年に「現代の人々 (Les hommes d’aujourd’hui)」誌にゴッホを紹介する記事を書いているようですが、手紙の抜粋を順次公開し始めたのは1893年4月~7月号の「メルキュール・ド・フランス」誌だということです。1892年に「現代の人々」誌に手紙を掲載したとの記述は見当たりません。ベルナール自身も、1911年書簡集を出版する際の序文に「今日わたくしが彼の書簡の全部を印刷させたのは――すでに一部を〈メルキュール・ド・フランス〉誌に掲載した後だが――これが我々を結んでくれた唯一の絆であったからだ。」と書いています(岩波文庫『ゴッホの手紙』上・22頁)。ベルナールが1891年に「現代の人々」誌に執筆していることは確かなので、もしかすると1892年に手紙の一部を同誌上で引用したり触れたりすることがあったのかもしれませんが、仮にそうであっても、ベルナール自身によっても、ゴッホ美術館の解説によっても、手紙の公開はメルキュール誌と位置づけられていることからすれば、メルキュール誌への掲載をもって手紙の公開と記載して差し支えないものと思います(もしその辺りの詳しい事情が分かれば、「フィンセント・ファン・ゴッホの手紙」という別記事(書きたいと思って準備はしていますが)で触れてもよい程度ではないでしょうか)。--ゴーヤーズ会話2013年11月30日 (土) 08:22 (UTC)[返信]
コメント お疲れ様です。現時点でのゴーヤーズさんの上記コメントについて確認しました。以下のとおりコメントいたします。
  • ゴッホの生誕地「フロート・ズンデルト」に関して、Klein Zundertとの区別ということは了解しました。しかし、「フロート・ズンデルト」としている文献は非常に多く、たとえば、相賀徹夫編『世界美術大事典2』(ただし「グロートヅンデルト」と表記)、アンナ・トルテローロ『ファン・ゴッホ 荒ぶる魂を削る』、家庭画報特別編集『ゴッホを旅する』、木下長宏『ゴッホ 闘う画家』(ただし「グロート・ズンデルト」と表記)、圀府寺司『ゴッホ 生涯と作品』、圀府寺司『「ゴッホの夢」美術館』、小林英樹『ゴッホの宇宙』、佐々木英也監修『オックスフォード西洋美術事典』、小学館『ゴッホ NHK巨匠たちの肖像』、新関公子『ゴッホ 契約の兄弟』、二見史郎『ファン・ゴッホ詳伝』、二見史郎・圀府寺司訳『ファン・ゴッホの手紙』、吉屋敬『青空の憂鬱』が挙げられます(ただし、二見や吉屋のように本文では「ズンデルト」とし、年譜で「フロート・ズンデルト」としているものもあります)。したがって、このまま選考を通っても書き換えられてしまう可能性が大きく、注釈を付けるなど何らかの配慮が必要だと思います。実は自分もこの選考で最初に疑問を感じたのは、この「ズンデルト」の部分でした。
  • 日本における最初のゴッホ言及に関して了解しました。木下長宏の『思想史としてのゴッホ』(1992年)では、雑誌『スバル』1910年5月号掲載の森鴎外の記事(むく鳥通信)を最初であるとしていますが(pp.37-38)、古い本ですし研究者によっても違う可能性もありますし、はっきりしないのでしたら「最初期」の表現が無難であると思います。
  • その他、加筆部分は確認しました。また、ロンドン支店転勤時期、ドルトレヒトの書店退職時期、テオの金銭的支援の始期、ベルナールによる手紙の公開時期、ド・ラ・ファイユのカタログ発刊時期の件も了解しました。
  • ほかにもテオのアパルトマンで遺作展、ヨーのハーグ&アムステルダム展(1891年ではなく1892年なのですね?)など既に加筆されているところがありますが、ゴーヤーズさんのコメントが無いところをみるとまだ作業中のようなので、こちらの確認作業も控えています。
  • 確認状況がわかりにくいので、指摘事項の冒頭に確認状況と日付を追記しました。
以上です。--Whaa会話2013年12月1日 (日) 02:51 (UTC)[返信]
コメント 追加の検討状況です。
  • ド・ラ・ファイユのカタログ発刊時期について、en:Jacob Baart de la Failleによれば1927年に『ゴッホのフランス時代』と題する本を出しているようです。しかし、これは一般に「ド・ラ・ファイユのカタログ・レゾネ」と呼ばれている1928年のカタログとは異なると思われます。私が最近参照したトラルボー (1992) も「1928年のド・ラ・ファイユのカタログ」を参照しています。ゴッホ美術館の解説も同様に1928年としています。
  • ロンドン支店着任を1873年6月13日とするのは、トラルボー (1992: 342) の年譜に遡ることが分かりました。しかし前記のような最新のゴッホ美術館による解説から見て、これは不正確と考えます。
  • ズンデルトとフロート・ズンデルトの区別につき、注で加筆しました。
  • テオが画廊での遺作展を目指して自宅での展示に終わった経緯については、加筆したとおりです。
  • 「ヨーがテオの遺骨をオーヴェルに移すのに、フィンセントが死去してから四半世紀も要しています」との御指摘は、英語版にある、1905年6月13日にいったんフィンセントの遺骨が掘り出されて移転されたという記述のことを指しているのでしょうか。この事実については出典を探しているところです。
  • ヨーによるアムステルダム(芸術家協会アムティ)、ハーグ(芸術協会プルフリ)での展覧会は二見 (2010: 308) によれば1892年です。
  • ドイツ、オーストリアでの展覧会の開催(1905年~1906年)は加筆しました。ドイツで書簡集が紹介されたという木下年譜については、どの程度詳しく紹介されたのか、書簡自体が掲載されたのかよく分からず、現時点で書く価値があるか、書くとしてどの文脈で書くか躊躇しています。これも手紙についての別記事で触れる程度かなというのが今の感想です。
  • ゴッホの「精神病」については、正直扱いが難しいです。そもそも精神病ではなく癲癇だという説が有力で、「精神病について」というような節を設けることもしにくく、まして「狂気について」というトピックの立て方も難しいです。ゴッホの発作の症状や、周りが下した診断、ゴッホ自身の受け止め方については比較的詳しく「生涯」節の中で触れるようにしたほか、木下 (2002) のコラムをもとに注釈を補いましたが、これ以上膨らませるべきか、迷いがあります。挙げ始めると100以上の診断名が挙がるようで、芸術との関係についても百家争鳴のようですが、そうした研究に深入りしすぎるのはウィキペディアの役割を超えるようにも思いますし……。--ゴーヤーズ会話2013年12月1日 (日) 09:53 (UTC)[返信]
  • ゴッホ改葬の点は加筆しました。以上でひと通り現時点での私からの回答は完了したと思います。ゴッホの「病」についての書き方を含め、助言があればいただければと思います。--ゴーヤーズ会話2013年12月6日 (金) 13:42 (UTC)[返信]
コメント 加筆について、以下のとおりコメントいたします。
  • はじめにゴッホの「病」について、コメントします。この記事を最初に読み通したときに感じた素朴な疑問は、結局のところゴッホの病気は何だったのだろう、というものでした。今回も読んでみましたが、このことを知りたいと思っても、どこを読めばよいのかすぐにはわかりません。
記事を初めから順に読んでいくと、ゴッホは、まず概要節で「狂気の天才」と書かれています。そして、少年時代には「小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られ」、その後、ひとつのことが長続きせず転職等の遍歴を重ね、また、周囲の人間と衝突を繰り返しました。「聖職者への志望(1876年-1880年)」節では、ゴッホの「常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れよう」として口論となったことが語られ、「ハーグ(1882年-1883年)」節では、「わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる」ゴッホの性向が語られ、その後、仲が良いはずのテオとの絶え間ない諍い、ゴーギャンとの衝突、有名な耳切り事件、アルル市立病院への収容やサン=レミの精神病院への入院、度重なる発作、銃による死と続きます。生涯にわたってゴッホが精神的な何物かを抱えていることがよく描写されており、それはよいのですが、ここでゴッホの病気について詳しく知りたいと思ってもすぐにはわかりません。目次にもなっていないので、記述箇所を探す羽目になります。やはり、一節を設けた方が便利に感じました。
また、現在の記事では、精神医学的研究は「社会的受容と伝説の流布(20世紀前半)」節にまとめられている感がありますが、20世紀後半以降は研究が進まなかったのでしょうか。歴史の流れの中でこの節に記述が必要なのはわかりますが、ここでの記述とは別に一節を設けた方がすっきりするのではないかと思います。
次にタイトルについてですが、「「狂気」について」とか「ゴッホの「狂気」」とかでよいのではないでしょうか。本文で、この「狂気」の意味合いについて説明があれば誤解を生じないでしょうし、問題ないと思います。ちなみに、フランス語版では「Problèmes de santé(健康上の諸問題)」という一節を設けています。ご参考まで。
最後にボリュームに関する部分ですが、「100以上の診断名が挙がるようで、芸術との関係についても百家争鳴のよう」とのとおり、ゴッホの狂気は一大テーマなのでかなりの分量になるだろうとは思っていました。しかし、あまりにも病気関係を盛り込むと全体のバランスが崩れてしまいます。ですので、記事「フィンセント・ファン・ゴッホ」では概略を述べるにとどめ、将来的に別記事「フィンセント・ファン・ゴッホの狂気」(記事名はあくまで例です)を立てて、それに委ねてしまう方向性でよいのではないでしょうか(※今回の選考では別記事の立項まで求めていません)。「100以上の診断名が挙がるようで、芸術との関係についても百家争鳴のよう」の全てに触れる必要はなく、諸説があることを述べた上で、2つ3つの例を挙げれば十分だと思います。
内容的にはよく書けていると思いますので、あとは構成の問題かと。この点が解決されれば賛成に切り替えますので、一節を設けるかどうかを含めご検討ください。
  • ゴッホの死後の四半世紀について、加筆を確認しました。加筆されたとおり、改葬の部分をイメージしていました。また、四半世紀もあるので、他にも何か付け足しがあるのではないかと思っていました。他に特筆すべき点が無ければ、これでよいと思います。
  • その他の加筆、「ド・ラ・ファイユのカタログ発刊時期」等の追跡調査についても、了解しました。
  • 指摘事項の冒頭に確認状況と日付を反映しました。
以上です。--Whaa会話2013年12月7日 (土) 01:14 (UTC)[返信]
コメント 再考して、もっともと思いましたので、「病因」説を加筆しました。ご検討ください。--ゴーヤーズ会話2013年12月11日 (水) 12:38 (UTC)[返信]
賛成 加筆内容を確認しました。病気の紹介により、非常にわかりやすくなったと思います。ですので、本日、賛成に切り替えました。おつかれさまでした。無事に選考を通過されることをお祈り申し上げます。--Whaa会話2013年12月11日 (水) 17:42 (UTC)[返信]

秀逸)選考基準の賛成のみ3票以上より一週間が経過、特に異論がありませんでしたので、この項目は秀逸な記事となりました。--totti会話2013年12月18日 (水) 19:00 (UTC)[返信]