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Wikipedia:井戸端/subj/存命人物の記事において、本人の主張に対する反論や補足を利用者が独自に行うことについて

存命人物の記事において、本人の主張に対する反論や補足を利用者が独自に行うことについて[編集]

中松義郎があんまりな内容だったので修正を行ったのですが[1]ノート:中松義郎においてその事に関連して現在議論になっておりますので、ご意見をお聞かせください。本人の主張が出典つきで記載され、そのことについて反証の記述を記載するのであれば、当然「中村氏はこう言っているが、しかし実際はこうである」といった主張を行っている資料によってなされるべきであると思うのですが、如何でしょうか?また、ウィキペディアにおいて、本人の間違った主張によって読者が勘違いを起こしてはならないので編集者が補足・予防しておくといった姿勢は[2]、独自研究や中立的な観点に欠ける行動には当たるのではないでしょうか?もし中立性を主張して併記させたいのであれば、それは個人の見解などでなく、客観的な資料が必要になると思うのですが。なお、中松氏の主張について積極的に載せたがっているのは私でなく、議論相手の方です。このまま納得いただけると良いのですが…。--CHELSEA ROSE会話2012年12月7日 (金) 11:41 (UTC)[返信]

ウィキペディア編集者個人の感想が原則的に不要であることは疑い有りませんが、どうしても必要な編注がある場合もあれば、余りにも常識的なことについては出典が不要と見なされる場合もあります。論点をできるだけ小分けにまとめた上で、コメント依頼を提出なさられることをお勧め致します。細かいものを一つ一つ、これが肝心です。全般的にどうしようとか、相手の言葉遣いや議論態度がこうとか言い出すと、紛糾します。一つ一つに、確かな文献を集めて、中立的に改善していって下さい。しかし・・・ウィキペディアには色々な記事がありますが、私はこの、ウィキペディア的に伝統的な、この記事がですよ。ここまでのレベルで中立的であることにつきまして、正直、昔から注目しているくらいです。より中立的になる様に、調整していってください。ただ・・・中松氏がいくらアイジーアイジーと言ってみても、実際に授与されたのはイグノーベル賞なのですよね?結局は。--Hman会話2012年12月7日 (金) 12:03 (UTC)[返信]
私も本人がどう言おうが所詮はイグノーベル賞でしかないと思っております。議論紛糾するようなケースは、基本的に出典が必要であるという認識です。中村氏の自称におかしな点があることは明白ですし、その点を過剰なニュアンスで表記するのではなく、淡々と記事を編集していくのが理想であると考えます。さすがに概要部分に裏づけにとぼしいとか、enWPでは記述がないとか、わざわざ記載するのはどうかと思いました。今はかなり中立寄りな内容になっていると思われます。--CHELSEA ROSE会話2012年12月7日 (金) 12:15 (UTC)[返信]
コメント 似たような件で悩んでいたので、ちょっとコメントさせて下さい。「本人の主張が出典つきで記載され、そのことについて反証の記述を記載するのであれば、当然「中村氏はこう言っているが、しかし実際はこうである」といった主張を行っている資料によってなされるべき」との御意見は、もっともだと思いますが、記事の当該本人が、本人が公表する一次資料で突飛な事を言ってるといのは良くある話で、それに対して、より信頼性の高い二次資料が、その本人の突飛な意見をわざわざ「本人はこう言っているが、しかし実際はこうである」という文脈で否定するケースも少ないと思います。
そんため、もし「本人の間違った主張によって読者が勘違いを起こしてはならないので編集者が補足・予防しておく」という主張により「記事の当該本人の主張に対する反論する情報」を多く書き入れようとする編集者がいるのであれば、それに対し「本人はこう言っているが、しかし実際はこうである」の内の「しかし実際はこうである」の部分を減らせと言うのではなく、「本人はこう言っている」の部分を削ろうと提案するのが良いのではないかと思います。
例えば中松義郎さんのイグノーベル賞受賞のケースの場合、中松義郎の記事中に、中松義郎さんの主張への反論としてイグノーベル賞に関する(常識的な)情報を無制限にかき集めてくる、というのは問題だと考えますが、「中松義郎さんがイグノーベル賞を受賞した」とい情報源の中で、補足的に「イグノーベル賞とは何であるか」を説明した内容というのは中松義郎の記事中に記載しても良いのではないかと思います。実例としましてはこちらの情報の引用されている朝日新聞の記述ではイグノーベル賞に関して以下の説明がなされています。
  • 「人々を笑わせ深く考えさせてくれる研究に贈られるイグ・ノーベル賞」
  • 「イグ・ノーベル賞は、選考や贈呈役に本家ノーベル賞受賞者が参加するユーモアあふれるイベント」
  • 「日本人受賞者には、足のにおいの原因物質の解明者や犬語翻訳機の開発者、カラオケの発明者らが名を連ねる」
こういった情報は「本人はこう言っているが、しかし実際はこうである」という文脈で表された記述ではありませんが、二次情報の執筆者(この事例では朝日新聞記者)が「読者が勘違いを起こしてはならないので編集者が補足・予防しておく」べきだと考え、追加した記述したとも考えられるわけであって、それを情報源としてWikipediaの中松義郎の記事のイグ・ノーベル賞受賞のくだりに記載することは許されても良いのではないかと思います。(もちろん、全てを記述すべきという話ではなく、現実的には「中松が受賞したイグ・ノーベル賞は、人々を笑わせ深く考えさせてくれる研究に贈られる賞(詳細はイグ・ノーベル賞参照)」といったあたりの記述が落としどころだとは思います。)
そのような情報を書き加えてもなお、まだ中立的ではないという意見があれば、本人の突飛な意見の側を削っていけば良いと思います。例えば、現在中松義郎の記事では「「アイジーノーベル賞」や「IGノーベル賞」と呼称・表記し、「ハーバード大学のノーベル賞」、「ノーベル賞の上のノーベル賞」と主張している」という記述がなされていますがこれは以下のような理由によりルールに基づいて編集除去を提案できるのではないかと思います。
このような理屈で、「もし、現状が中立的では無いと言うのであれば、本人の主張の方を削りましょう。実際に削ることは方針・ガイドライン上から考えても可能なはずです。反論を過剰に追記するのをやめるか、本人の主張を削るのか、どちらかを選んでください」と言っていけば、旨くCHELSEA ROSEさんがおっしゃるような「過剰なニュアンスで表記するのではなく、淡々と記事を編集していく」ような議論に落とし込んでいけるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。--Pemo会話2012年12月8日 (土) 13:55 (UTC)[返信]
仰るとおり、、「本人はこう言っている」という部分そのものを削るという選択肢もありだと思います。私も最初に手を加えた時は、一度はその部分もまとめて削るという措置をとりました(当時は中立性だけでなく氏の主張が特筆性においてどうなのかな?と思ったのもありますが)。その後記述が復活されたので、本人の主張ならあってもいいし議論の行方次第かなと思いその後は除去しませんでしたが、記載を望んでおられる方は、中村氏の主張がいかに荒唐無稽であるかを記事の中で示すため、元より主張と反証の併記をかなり積極的に望んでおられるようです[3][4][5]。ですので私としては、他の編集者の方が納得されるようでしたら、Pemoさんの仰るような理由で除去する方向で構わないと考えております。--CHELSEA ROSE会話2012年12月8日 (土) 18:00 (UTC)[返信]
いや、もちろんCHELSEA ROSEさんが、そういうお立場(「本人はこう言っている」の部分の存続にこだわりが無い)であることは理解しております。その上で、そのような状況において、討論相手の本人の間違った主張によって読者が勘違いを起こしてはならないので編集者が補足・予防しておくといった「姿勢」そのものを問題視するアプローチで議論するのは問題を紛糾させるのではないかと思いコメントした次第です。そもそもWikipedia:中立的な観点自体が「読者が勘違いを起こしてはならないので編集者が補足・予防しておく」ためのルールのようなもので、その「姿勢」は、多かれ少なかれ、多くの編集者が共有するものであろうと思います。
そのため「姿勢」そのものを問題視するのではなく、その「姿勢」の結果、ルールを逸脱した部分に対し、ルールに基づき説得したほうが良いのではないかと思い、具体的には上記のようなルールに基づいて説得してはどうかとの考えでコメントしました。
自分でもうまく纏まらない意見を中途半端にコメントしてしまい、わかりにくくてすいません。端的に言えば、罪を憎んで人を憎まずと言いますか、討論相手の姿勢を問題視するより、実際の個々の記述に対し、個別具体的にルールを示し議論したほうが、解決が早いのではないかという趣旨です。--Pemo会話2012年12月8日 (土) 20:56 (UTC)[返信]