Wikipedia:井戸端/subj/出典の意義は何か?

出典の意義は何か?[編集]

Wikipediaは出典提示を相当重要視してますが、意味が有るのでしょうか?出典提示に意味が無いと、私は考えています。出典を提示する事と検証可能性を示す事は、関係が希薄です。

この両者は全くの無関係でなく、少し関係している事でしょう。ですが、密接な関係にあるとは言い難い気がします。何故なら、Wikipediaで提示された出典は、出典に関する表面的データを電子データとしてウェブブラウザを介したものに過ぎないからです。換言すれば、「出典の現物を、ユーザに回覧している訳ではない。」という事です。

記事の内容が独自研究でない事をを示す唯一の方法は出典の提示です。しかし、そんな事で検証可能性が保証されるのでしょうか。出典の現物を手に取って「これが出典だよ」と相手に手渡せば完璧ですが、それは不可能です。出典は紙に印刷された物が多く、ウェブブラウザでは手渡しできません。これは出典の提示とは言わないのではないでしょうか。書名とか出版社名とか著者名とかの明記で、出典の提示と言えますか?

仮に『朝日新聞(1990年1月1日)』と出典を書かれると、私はその出典に辿り着けません。何故なら、20年前に売り切れていて、何処にも売ってないからです。従って、朝日新聞を架空のウソ出典としてデッチ上げられると、私はそのウソに騙されて信頼してしまうでしょう。逆に、20年前の朝日新聞に殆どのユーザ辿り着けないという事を、執筆者は知っています。なので、架空のウソ出典をデッチ上げるのは簡単ではないでしょうか。

あと、「国会図書館に有ればOK」と、何処かのガイドラインに書いてありました。しかし、これは不親切ではないですか?まるで、誰でも気軽に国会図書館にアクセスできるかのように聞こえます。私の記憶が正しければ、国会図書館は永田町にあります。Wikipediaの記事を検証する為に、沖縄県に住む人が数万円の費用をかけて永田町まで足を運ぶ事は無いでしょう。永田町にアクセスできないユーザが過半数を占めるのにも関わらず、国会図書館にある資料を出典にして、再現性や検証可能が有ると言えるのでしょうか。私に言わせれば、国会図書館にしか無い資料よりもテレビの方が再現性に優れています。大事なのは、「提示された出典がユーザの住所に依らず容易に再現できる」という事です。

私にとって意味の有る出典は、「私の所有物」と「私の記憶の中に有る書物」と「近所の本屋に売ってる書物」の3つだけです。この3つだと、簡単かつお金をかけずに私は記事の検証が出来ます。しかし、この3つに該当しない出典は幾らでも有る。そんな出典を提示されても私の中では全く意味が無い。国会図書館に有るか無いかなんて、全く関係無い。繰り返しになるが、国会図書館にある資料が万人に再現できる訳でない。万人が容易に再現可能な出典が少ないという事を、出典ガイドライン作成者は考慮しているのでしょうか。

逆に、出典が無くとも検証可能性が分かる物も有るのではないだろうか。例えば、「雨は空から降って来る」とか。こんなものに、出典は不要ではないでしょうか。--ニッタユカ 2009年10月3日 (土) 10:33 (UTC)[返信]

その「私にとって意味のある出典」に、ぜひ「最寄の図書館で借りられる資料」を加えてください。時間的制約をやや緩く設定すれば、図書館間相互貸借により「けっこうレアな書籍」も無償で借りられたり閲覧することができますので。まあ「出典だ出典だ!出典出さなきゃすぐ除去するぞ」とか騒いでるような人がいると、書籍を取り寄せてもらっている間に記事が弄り回されたりしてやる気が失せるんですけど~(毒)。なお小生個人としては、出典は検証可能性を満たし読者に益するものであって、気に入らない記述を除去する口実として付与を何が何でも求めるようなものでも、自身が主張したい事柄を記述するために特筆性も疑われるような言説を発掘してきてくっつけるようなものでもないと思いますね。その意味で、出典は記述の一字一句に付与していくのではなく、読者に記事に扱われた事物の理解を促す上で、必要不可欠であったり良書として紹介したいほど包括的にまとめられているものを提示したいと考えています。また、所定の文献によらずとも、その分野における書籍を紐解くと概ね共通して見出せる概念などは、記述者の手元にあって参照した資料に限定してもその資料のみでなくても検証可能という意味で、出典として付与すべきかを考慮することがあります…その場合はあくまでも「参考文献」として提示するのみですかね。--夜飛/ 2009年10月3日 (土) 11:01 (UTC)2009年10月3日 (土) 12:32 (UTC)[返信]
ニッタユカさん定義するところの「出典」を適用しますと、科学技術関連の記事の出典、特に論文はほぼ出典としての意味がない、ということになりますが、その辺はどうお考えでしょうか。出典として、例えばScience誌やnature誌及びその姉妹誌、各学術分野における専門誌などに掲載された論文を提示した場合、それらの雑誌は、あなたの言う「私の所有物」、「私の記憶の中に有る書物」、「近所の本屋に売ってる書物」にはなかなか当てはまらないものと思量しますが、それらも自分が手に入れられないから意味がない、とお考えでしょうか。Wikipedia:出典を明記するには出典を提示する際の書誌情報として「著者名、著書(論文)名、雑誌名、巻数、発行所名、叢書名、刊行年、参照ページ」を挙げていますが、最低でも「著者名、著書(論文)名、(論文等であれば)雑誌名、発行所名、刊行(ないし発表)年、(論文の場合)参照ページ」程度の提示があれば実在するかどうかの確認は可能です。
ちなみに、新聞の場合、過去の版について「縮刷版」というものが作成され出版されていることはご存じでしょうか。縮刷版は図書館で閲覧できるので「何処にも売っていないので確認できない」ということはないはずなのですけど。--森藍亭 2009年10月3日 (土) 12:01 (UTC)[返信]
料金がかかりますが、資料もページもわかっていれば、複写サービスを受ければ良いので何万円もかけて国会図書館に行く必要はありません。ちなみに海外にいても受けられるサービスです。あと既に言われてますが、新聞も縮刷版が出てますし、朝日新聞くらいになるとそこそこ大きい図書館や大学の図書館なんかにはまずあります。--EULE 2009年10月3日 (土) 13:32 (UTC)[返信]
沖縄に住む人は好きで沖縄に住んでいるわけですよね。そして我々東京の人間が創造した富や税金を、あまり効率のよくない形で浪費しているという現実があります。そのような「社会に対する負荷」というものは、おおまかには、東京から離れれば離れるほど大きくなっていくものと推定できます。
たまには数万円をかけてもらうのもいいんじゃないかと思うんですけどねえ。地方に住んでいると、そのあたりの感覚も我々と違ってくるものなんでしょうか。
それに田舎に住んでいるなら、出典にありつかなきゃならない事態なんてそうそうないでしょう(笑)。(このコメントがあまり冷静でない事は承知の上で……「田舎から東京に来るのはコストがかかる」とか言われると、まともに働いて税金納めている人間は、そりゃ冷静でいられなくなるってもんですわ)--114.145.169.2 2009年10月3日 (土) 15:33 (UTC)[返信]
例えば、C言語のような、政治的な対立のない記事においては、出典がなくても、結果的に概ね正しいことが書かれている記事になるかもしれませんし、ウィキペディアの執筆者同士で意見が真っ二つに分かれることはあまりないでしょう。こんな記事ばかり見ると、出典は不要に思えてきますね。性善説に基づけば、出典を明示しなくても、しっかりした記事が書かれることは可能だろうと思える。逆に性悪説に基づけば、どうせ出典が記載されていてもフェイクかもしれないし、誤読しているかもしれないと思える。出典は不要? それはひとつの意見としてアリだと思います。ただ、ウィキペディアは出典重視を土台にしてやって来たのも事実。出典が奨励されないウィキペディアは、もう別物だと思います。例えば、「はてな」では出典は義務付けられていないみたいですけれど、あそこは、ウィキペディアみたいに一見さんの書き込み歓迎じゃないですからね。別の戦略で信頼性の確保に努めています。
基本的にウィキペディアは、やや性善説よりかなと思います。きちんと出典を書くような人ならば、ちゃんとした記事を書いているはずと考えている? たまには、執筆者が出典をちゃんと読めているかどうか疑ってかかることも大事かもしれないですね。実際、私の少ない編集経験の中でも、出典に書かれている情報を見誤っている記事を発見しています(例:ノート:SH002)。
なお、「雨は空から降って来る」のような記述については、出典が不要であると、ガイドラインに書いてあります。以下、Wikipedia:独自研究は載せない#資料「一次資料と二次資料」から抜粋。
>なお、(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。アップルパイや最近の出来事などが、この例として挙げられます。ただし、こういったことは例外です。
この件について、ご存じなかったことから、失礼ですが、ニッタユカさんは、もっとガイドライン文章をお読みになった方が良いかも?と思います。ウィキペディアにおいて、どのような哲学から出典を明記することが有益と見なされているのか、次の文章を熟読すれば理解できると思います。
個人的には、ウィキペディアのルールを唯一絶対の至高のものであると考える必要はないと思いますが、すばらしく機能しているので、(ウィキペディアにおいては)従った方が良いと思います。上に挙げた二つの文章にWikipedia:中立的な観点を加えた3つのガイドラインは、本当によくできていてる、見事なシステムだと思います。
--Mimosa5 2009年10月3日 (土) 16:42 (UTC)[返信]
追記:失礼しました。ガイドラインを熟読しなきゃならないのは、私の方でした。「雨は空から降って来る」については出典が不要であるなんて、どこにも書いてないですね。なんで今まで勘違いしていたんだろう…。すごく恥ずかしいです。本当にごめんなさい。--Mimosa5 2009年10月3日 (土) 17:11 (UTC)[返信]
追記2:「雨は空から降って来る」に出典が必要か否かの件について。Wikipedia:独自研究は載せないが定義する独自研究に該当しないものとして、出典は不要であると主張することができると思います。しかし、「自明のことについては出展は不要である」とはっきり断言するガイドライン文章は、たぶん存在しないと思います。そのような記述があると、「自明であること」を拡大解釈する執筆者が現れるからかもしれませんね(?)あるいは、「自明であることに出典はいらない」ということは自明であるので、わざわざルールとして制定する必要がなかったからでしょうか…(?)。--Mimosa5 2009年10月3日 (土) 17:32 (UTC)[返信]
追記3:すみません、「自明なことは出典が要らない」という意味のことが、Wikipedia:独自研究は載せない#資料「一次資料と二次資料」にはっきり書かれているという見解の方が正解でした。意見がフラフラと変わって申し訳ありません。「一次資料と二次資料」において、一次資料を直接ウィキペディアで公表することは禁止であると書かれています(論点1)。自明なことは一次資料に基づいて書いて良いと書かれています(論点2)。論点1と2を併せて考えると、自明なことを裏付けるソースは、ウィキペディアに書くべきではないと結論できます。ゆえに、「自明であることに出典はいらない」と言えます。結論:「雨は空から降って来る」に出典明記は不要です。--Mimosa5 2009年10月3日 (土) 17:59 (UTC)[返信]
「雨はから降って来る」は自明なんですか?山の上にいて、上昇気流によって下にある雲から吹き上げてくる水滴が雨なのか雨でないのか、頭上を通過する航空機が振りまいた水滴は雨なのか雨でないのか、自明であるのかどうなのかは「雨」にどれくらい意識がむいているのか、過去にどんな経験をしたのかによって変わってくるはず。善意にとれば、要出典を貼る人がいたとしたらその人の認識で自明でないと感じたからなんだから、なんで自明でないと感じたのかめいっぱい想像しないと。なんで、それで十分だと思ったのか出典が明かされれば、それでいいと感じる人と、補強してくれるひとがいるかも。出典の意義は、誰がどこまで考えて記事を書いたのかを知る手がかりになるから、というのもひとつあると思います。--橘幸恵 2009年10月4日 (日) 01:36 (UTC)[返信]
自明かどうかは、扱う主題次第でしょう。雨について書かれてる記事で、空から降ることをそれ以外に例外の無い自明なこととするのは問題があるかもしれないが、七人の侍のラストシーンやショーシャンクの空にのポスターについて、雨が空から降る出典を書く必要も求める必要も無い。ここで言っていることはそういう意味だと思いますよ。--EULE 2009年10月4日 (日) 03:22 (UTC)[返信]
  • 出典の意義は、出典で引証しながら話し合いを進めると、冷静かつ円滑に進められるという点にあると思います。
たしかに、出典がないからと言って、ガンガン除去されてしまうのは嫌ですよね。できれば、出典がないといって消すのではなく、出典を探してあげる、というような協力的・生産的な方向での参加がWikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいでは望まれていると思います。
一方で、出典の意義は、トンデモ理論を排除する武器として、大きいと思います。たとえば「雨は雲から降ってくるのではない!太陽から降ってくるんだ!」なんていうケチが付いたとしましょう。そういったときに、
本文
雨は雲から降ってくる[1]
脚注
  1. 松村 1998, 「雨」
参考文献
  • 松村, 明 (1998), 小学館『大辞泉』編集部, ed., 大辞泉 (増補・新装 ed.), 小学館, ISBN 9784095012124 
とし、「太陽から」を主張する人には、ノートで出典の提示を求めます。出典の提示なく差し戻しを強行するようであれば、WP:BLOCK#8.1項 議論の拒否や妨害としてブロック処分に持ち込めるでしょう。このように、トンデモ理論の排除にあたって、出典の提示による引証の原則は強力な武器であると思います。また、双方共に出典を提示できた場合は、両論併記という形で冷静に論争の解決にこぎつけることが可能となるでしょう。
  • ウソ出典はたしかにもってのほかだと思います。ただ、出典が示されている以上、それを確認するのは読者の責任でしょう。ウィキペディアを過信しきっている人は結構いるのですが、そういう話を聞くたびに、私は忠告しています。「ウィキペディアを過信するな、出典を確認しろ」と。確認したい、と切に願えば、切に願うならば多少の労力をかけるのでしょうから、大抵のことは可能だと思います。各地の大学図書館は関係者でなくとも入館と閲覧を認めていますし、国会図書館は郵送で利用者登録と複写申込が可能です。労力をかけずに検証したいという要望には答えた方が良いとは思いますが、答えなければならないとは思いません。労力をかける気がないなら、鵜呑みにして馬鹿を見ても自己責任だと思います。
  • 最後に、関連議論へのリンクを置いておきます。Wikipedia:コメント依頼/ニッタユカ#出典に関する疑問ノート:守護神/野球部分の削除に関する議論。--Akaniji 2009年10月4日 (日) 04:20 (UTC)[返信]


(個人的な見解)「朝日新聞」などを出典にする場合、web版と紙面を両方書くと、便利です。
作例:
>国産ジェットMRJは、低燃費・低騒音・客室の広さが評価された<ref>「国産ジェット 海外から初受注 「MRJ」、米社に百機」『朝日新聞』2009年10月3日付朝刊、13版、12面、経済。</ref><ref>asahi.com 2009年10月2日22時4分: 三菱のジェット機、海外から初受注 米へ100機</ref>。
web版は、気軽にアクセスできるが、永久に保存されない。新聞は、アクセスするのが難しいけれど、何十年も昔の紙面を読むことが可能。一長一短あるので、なるべくなら両方を併記するのが望ましいと思います。唯一の出典として提示されている朝日新聞サイトへのリンクがリンク切れになってしまった場合、図書館に行って、紙面への出典に挿げ替えるのが王道ですが、産経新聞のサイト(長期間Web情報を削除しない傾向にある)の方は生きていることがあるので、そちらに切り替えるのも良いかもしれません(政治的に違う主張になる場合は、無理かも?)。--Mimosa5 2009年10月4日 (日) 05:56 (UTC)[返信]
出典の意義・意味は有りますよ。つい最近もある記事の参考文献の調査を行って、出典リストが嘘であることを証明し、記事を削除してもらいました。--長島左近 2009年10月8日 (木) 00:25 (UTC)[返信]

このトピを設立した者です。

お陰様で、皆様から多くの有益なコメントを頂戴できました。ありがとうございました。特に、図書館には新聞のバックナンバーが有るというコメントが参考になりました。他のコメントも参考にして、出典に関する理解を深められればと考えています。--ニッタユカ 2009年10月9日 (金) 03:06 (UTC)[返信]

>他のコメントも参考にして、出典に関する理解を深められればと考えています。
いろんな人たちによる出典の意義に関する意見・助言に対して、最後に「ありがとうございます」「理解を深められればと考えています」、たったそれだけですか。質問は無いのですか? 無いのなら、上記意見・助言はすべて受け入れて実行すると解釈してよろしいのですね。--JSBB 2010年3月20日 (土) 06:48 (UTC)[返信]