Wikipedia:井戸端/subj/一般向けの書籍を出典に使うと方針無理解でブロックされますか。

一般向けの書籍を出典に使うと方針無理解でブロックされますか。[編集]

記事の検証可能性、正確性を補強する出典は概して学会の分野で高い評価を得ている専門書でなければならないのでしょうか。文庫本など、普通の書店に流通しているような書籍を参考文献として補記するとWikipedia:信頼できる情報源などの方針への無理解と判断されブロックされますか。--shellsquid 2010年7月31日 (土) 13:15 (UTC)[返信]

具体的な話が無いので、なんとも答えにくいです。ただ、それだと話が終わっちゃうので、ちょっと幾つかのケースを想定して。
極端なケースとはなりますが、例えば子供向けのトンデモ本が手元にあったとしましょう。これを出典として、超古代文明の項に「誰某は『××遺跡は古代の宇宙ロケット発射場だ』と主張している」と書くことは、事実その通りであり中立的で妥当な内容にして、特筆性の上でそれほど問題が見られなければ除去されることはないと思います。しかし同じトンデモ本の同じページを出典としてロケットの項ロケットの歴史の節で「宇宙ロケットの利用は紀元前○世紀の××遺跡が利用されていた時代に始まった」なんて書いたら…もう、残すほうがどうかしているって位に差し戻されるかと。このように、程度や記述の・あるいは記事側の性格といった要素に絡んでいるため、一概に言える性質の問題ではないと思います。それでもなお資料とした「一般向けの書籍」のみに限定させると、一般事物を説明した記事では、フィクションや娯楽を主体とした作品の記述はWP:TRIVIAの問題にも絡んで主体となる説明から逸脱するし、また地理関連の記事である随筆家の紀行文とかを出典として書くにしても、その随筆家や該当作品の著名度によっては、やはり雑多な記述に堕す危険性を含んでいるように思います…古い著名な紀行文から当事の景色や風俗に関する記述を抜粋したなら、それは記事として参考になる興味深い記述になると思いますが、現代の作家が現代の商業施設に赴いた感想を雑誌などに寄稿したものを引用したとしても、それは作家個人の視点に基づく、いわば中立的視点とは無縁の個人の視点でしかないし、ましてそのようなものを幾ら列挙したところで記事が混乱するばかりで余り主体の説明にならなそうだし。それなら該当商業施設の公式サイトから淡々と施設の紹介文や要素の抜粋だけを書いたほうが、より説明的といえるのではないかと考える次第です。
まあ実際にshellsquidさんの仰られているのがどのような状態であるのかは判りませんので、的外れだったらご容赦頂きたく。--夜飛/ 2010年7月31日 (土) 13:47 (UTC)[返信]
場合によるので難しいですね。それを無視してある程度の基準を設けるなら、特定の分野に限定して書かれていて(幅広い話題を扱う雑学本のような本でなく)、かつ最後のページに信頼性のある参考文献が書かれている(2次資料である)か、他の書籍から参考文献として参照されているような信頼性のある書籍ならば、とりあえずはOKかなと。(場合によるので断定はできませんが)例えば、私はイオン高の原ショッピングセンターがイオンのショッピングセンターで唯一県境をまたぐという記述の出典に、一般人によって書かれた一般向けの本ではあるけれども参考文献がきちんと明記されている、県境マニアという本を選びました。--けいはんな 2010年7月31日 (土) 15:12 (UTC)--けいはんな 2010年8月1日 (日) 14:39 (UTC)[返信]

Yatobiさん、けいはんなさんの言われるとおり、場合によるとしか言えないでしょう。

細かいことを言うようですが、「学会の分野で高い評価を得」るのは論文が主で(査読つき学術誌に掲載された論文)、書籍は学術誌での書評や、後続の論文・書籍で参考文献として参照されるか否かを通じて評価を確認するしかありません。学会での評価は、確かに情報源の信頼性を図る上で客観的に分かりやすい指標であるのは確かです。

とはいえ、「文庫本など、普通の書店に流通しているような書籍」(「普通の書店」て何?…という点はさておき)であっても、例えば芸能人やサブカルチャーのように、そもそも「学会の分野」や「専門書」が存在しなかったりあっても不明確だったりする場合には、出典を明記して検証可能性を確保し、独自研究を回避する上では充分であって、百科事典記事としての品質の確保のために充分な機能を持つでしょう(「オレ、昨日テレビで見たんだよね」が出典なんていうのを書き散らかすより、どれほどマシか分かりません)。

逆に「学会の分野」や「専門書」が存在しているような主題、例えば寺院や神社について書かれた記事に、例えば観光ガイド(「普通の書店に流通しているような書籍」)や某スピリチュアル商法の書いたものをもとに記述を追加した場合は、多くの場合、品質の向上にも維持にも貢献しないでしょう。そうした本に書いてあることは、しばしば学術的には誤りであることが判明していたり、ずっと昔に否定された説に基づいていたり、俗説に過ぎなかったり、歴史的なコンテクストを誤ったり…等々、要するに主題の理解をむしろ妨げるようなことがしばしば書いてあります。そうした意味で言えば、「普通の書店に流通しているような書籍」にもとづいて記述しても、出典がないわけではないという意味ではたしかに検証可能ではあるでしょう。しかし、それだけで記事の品質が確保されるのかというと非常に疑わしいところです。そうした記述はやがては除去されるでしょう(と信じたい)が、除去するべき理由について合理的な説明があるにもかかわらず、残すんだ!とか言ってガンバったりするとそういう場合にはブロックされるかもしれません。ただそれは、意図的に記事の品質を下げる行為としてであったり、コミュニティの疲弊であったり、対話拒否であったりで、おそらくshellsquidさんが想定されるようなWP:VとかWP:RSとかWP:CITEとかそこら辺りの問題とは違った問題としてのことになるでしょう。

ただ、「普通の書店に流通しているような書籍」と学術書の中間にあるような新書という出版形態もあるわけです。老舗の岩波・中央公論・講談社の新書であれば、専門書や学術誌の論文で参考文献に取り上げられるものも少なからずありますから、「普通の書店に…」ということは必ずしも情報源としてダメであるということにはならないでしょう。結局のところ、Wikipedia:信頼できる情報源にもあるとおり、情報源としての信頼性を評価しながら使うしかないでしょう。もちろん、どういう記述の情報源として使いたいのか、によって信頼性の評価は変わってきます。例えば先ほどの寺社の例で言えば、巷間に広まっている誤解・俗説の例証として観光ガイドを参照するのであれば、別に問題ではなくなります。そこら辺は、難しいところです。--ikedat76 2010年7月31日 (土) 17:44 (UTC)[返信]

コメント「どこそこの書籍に『AはBである』という記述が存在する」という事実〈事実A〉があったとして、その事実を記事に乗せる場合に情報源の信頼性が問われるのは2つのケースだと考えます。

ケースAは本文の論旨〈論旨α〉を説明する目的に合致した複数の事実があった場合、すべての事実を列挙するのではなく代表する1つか2つの事実に選抜する際に、事実Aと事実B…のなかで選抜を評価する際に情報源の確からしさを比較するという場合があります。この際に、「すべての事実A…事実Z」を列挙すべきだと主張してみたり、「事実Bでなくてはならない」と主張することで議論が紛糾した場合はブロックの問題は出てくる可能性はあります。これは厳密にはWikipedia:信頼できる情報源に係る編集合戦という問題ではなくもはやWikipedia:腕ずくで解決しようとしないの問題としてブロックが検討されるという事態です。

ケースBは論旨αを説明する上で事実Aが不適格だという編集合戦になります。多くの場合、不適格かどうかは論旨αに係る観点に依存します。言い換えると事実Aは論旨の観点〈イ〉では不適格であっても論旨の観点〈ロ〉では適格であるということなので、本当は観点〈イ〉か観点〈ロ〉かの選択の問題なのですが、〈例えば〉観点〈イ〉の傍証としてWikipedia:信頼できる情報源が証拠として主張されることがあるという点です。この場合はWikipedia:信頼できる情報源であるかどうかというのは論争のための根拠としては意味を成しません。観点の選択は本文のテーマに対して各観点を比較評価されるべきもので、情報源同士を比較評価すべきものではないからです。この種の論争を「観点の問題として議論するのではなく、情報源の問題として議論する場合は千日手になり無限循環します」その結果、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないの問題としてブロックされる可能性はあります。

いずれにしてもWikipedia:信頼できる情報源の評価は議論の入り口にすぎず、ブロック問題はそれに加えてほかの方針・ガイドラインに抵触することで発生するので「Wikipedia:信頼できる情報源」は原因というよりは「きっかけ」にすぎないと考えます。--あら金 2010年8月1日 (日) 00:32 (UTC)[返信]

コメント一般向け書籍が出典として相応しいか否かはすでに多く示されている通り、ケースバイケースで一概には言えないことだと思います。出典として相応しいと判断したうえで一般向け書籍を提示される場合、余程の不見識でない限りそのこと自体がブロックに繋がることはないと思います。ただし、出典として相応しいとした判断はあくまで主観に基づくものであり、第三者から異論・反論が示される可能性があることは理解しておく必要があります。自ら正しいと信じて下した判断に異論・反論が示されたときに適切に対応することができなければ、結果として別の理由でブロックされる可能性はあるでしょう。--M_aisawa 2010年8月1日 (日) 00:43 (UTC)[返信]

 検証可能性は、全か無か、というようなものではなく、1か5か20か、というような連続的な指標であると私は思います。一般向けの書籍であれ、文献として添えてあれば、検証可能性は0から5くらいにはなると思います。のちのち「この文献じゃ論拠薄弱」と思う人が出てくれば、文献を学術書などにパワーアップしてくれることでしょう。その時、検証可能性は5から20になるわけです。一般向けの書籍であれ、0よりは5の方が良いのは間違いありません。ただ、注意したいのは、検証可能性が0ではなく5であるからといって、中立でない、たとえば差別的な記述や、定説とは言いがたい内容が掲載できるわけではないということです。検証可能性はWP:5NPOVを支持する梁に当たる位置ですから、そこは履き違えないよう注意したいところですね。WP:VよりWP:NPOVの方が重要、WP:VはWP:NPOVを達成するための手段に過ぎない、ということです。一般向けの書籍を論拠として、POVが偏った執筆を繰り返せすと、短期ブロックはありえるかもしれません。--Akaniji 2010年8月1日 (日) 00:49 (UTC)[返信]

コメントいくつかの視点があると思います。

  • 既に指摘されているように、記事内容によっては、学会で評価されているような専門書が存在しないこともありますし、それがある場合でも、学術分野、学術団体の発展の様相によっては、学会外の資料のほうが詳細で正確な場合もあります。
  • 個々の事実関係や論についての正確さに関しては、元の資料を確認しているほうが「正確」です。しかし、その「元の資料」の信頼性は、それ自体からは得られませんし、その資料の「正しい読み方」を、ウィキペディアの執筆者がしていない、できていない場合もあります。個々の資料に書かれていることの評価は他の資料での扱いを参照しないとわからない。また、その内容を、項目の中でどう位置づけるかという点については、より広い範囲を扱うような情報源、たとえば概説書や啓蒙書など普通の書店で手に入るようなもののなかで触れられていることも多いでしょう。
  • 文庫本かどうか、一般の書店で手に入るかどうかは、直接には関係しません。それなりに傾向はあるとしても。
  • 情報源としたものが、専門的に、あるいは一般的に、どのような評価を得ているものかということがわからないならば、とりあえずそれを使って書いてみてもいいと思います。それだけでブロックされることはないでしょう。指摘を受けたときに、自分が十分にはわかっていないことを自覚して対応をしてもらえればいいのです。文庫になっている自己啓発本を元に相対性理論の内容を加筆していたら、論外ってことでブロックされるかもしれませんけれど。岩波文庫の相対性理論や、ブルーバックスから加筆する分には、とりあえずは問題ないでしょう。
  • そこそこ信頼できる本で、一般の書店で入手しやすいもの、文庫のように廉価で携帯容易なものを提示することは、読者の益になるものです。理想的には、きちんと専門分野の書籍を読み、内容について理解し、それらを情報源として示した上で、その分野に関してどのような「一般の書店で入手しやすいもの」があり、どれが信頼できるか、信頼されているかということを踏まえて、読者のために案内することがよいのだと思います。--Ks aka 98 2010年8月1日 (日) 05:18 (UTC)[返信]

コメントすでに皆さん言われてますが、それ自体でブロックとなることはないでしょう。文献のチョイスという話になれば、まずその情報について今現在どれだけの文献があるかというその分野・領域ごとの状況、これがまず第一の前提となるでしょう(つまり分野ごとの文献のレパートリの全体像)。そしてそれを前提とした上で、文献を色々チョイスしていこうという話になっていくのではないかと思います。だからここらへんは互いに情報を出し合って協力していける部分であり、それ自体がどうこう、というのは基本的にはない問題だろうと思います。とりあえずここらへんの問題は、分野横断的に単に出版社・著者・肩書きといった外形的なものだけで一元的に峻別できるものではないので、理想的には各分野に密着する形で、例えばウィキプロジェクトのようなものを基点にして、各領域ごとの文献情報を充実させていくということが重要なのかと思います。

  • 例えば単に誤字脱字や書き間違いのレベルだけで一番信頼性が高い文献というなら、小学校の教科書などが挙げられるでしょう(読者が何十万人といて、一年かけて一字一句見ていく本なんて中々ないです。教科書以外だと聖典か法律関係の文書ぐらいでしょう)。しかしそれでもウィキペディアで小学校の教科書を出典として利用する人はほとんどいないでしょう(時々いて注目されてたりするようですが)。つまりこれは私たちが単に嘘・本当の確認のためだけに文献を引いてるわけではない事を示します。
  • ブルーバックスも含め、どんな出版社のどんなシリーズも本当に本による・分野による・どの情報の出典として使用するか、という細部によるかと思います。例えばブルーバックスであれば、化学や生物また工学系の分野における単純な事実やデータについての出典としてなら良いと思いますが、次のような言葉もしばしば見られます(これは編集部の方針なのかもしれないですが)。「数式を一本入れると売上げが半分になる。だからなるべく数式を使わず説明する」のような。もちろんこれがブルーバックスの良さであり、そしてその上で各著者がそれなりに自由に書きたいことをのびのび書いてる所、そこらへんが多くの読者に楽しみを与えます。しかしそういう事情もあるだけに、物理系や数学系のネタについては「とりあえずイメージだけでも読者に掴んでもらう」というスタンスで書かれてるものが多く、ここらへんはかなり使い方に注意がいるものだと思います。教科書的な本であれば、「数式を理解することが一番の理解の早道」みたいなこともよく書かれている分野ですから、この部分のギャップには十分に注意していく必要があるだろうと思います。
  • 文献の評価軸は必ずしも信頼性だけでないというのも大事かと思います。これもすでに皆さんが何度も指摘されてるように、他の評価軸、たとえば、手に入りやすさ(入手容易性)、日本語で読めるか(母語であるか)、ネットで無料で読めるか(オープンアクセスか)、引用数が高いか(つまりは有名か)、分かりやすいか(読みに行く価値があるか)、等々、色々な側面の評価軸があり、こうした色々な評価軸で評価した上で、集めた色々な文献をそれぞれどういう形で使うか、という所も、また書き手が工夫できる余地のある所なんではないかと思います。--Was a bee 2010年8月1日 (日) 17:40 (UTC)[返信]
  • コメント 概ね皆さんがおっしゃっているようにケース・バイ・ケースですので、ここでは具体的に私の興味のある分野を例にしたいと思います。日本史分野の書籍では、小学生向けのマンガ入門書から学術論文まで様々なレベルの資料が考えられますが、少なくともマンガ入門書本文や教科書を出典にするのは、憚られます。これは、教科書は数年に一度の検定を経て異論のない記述を取りまとめるため往々にして古い学説が記載されていること、細かい学説の相違を無視した概論に止まった記述が多いことなどが理由だと思われます。かと言って、専門的な学術書や紀要に掲載されている論文のみでは、一般人から見て何故問題になるのか不明なくらい細かな議論が詳細になされていることもあり、百科事典の記事全般の出典としては適切と言いにくいです。こうなってくると、多くの記事の出典に掲げられている文献は、新書、通史、概説書などを中心としつつ、一部のきめ細かい記述のみ論文を出典とする、ということになりそうです。レベル的には、一定の基礎知識(少なくとも高校教科書レベル)を前提とした一般向け啓蒙書といったところでしょうか。場合によってはシンポジウム記録なども使い勝手がよいです。基調講演者やシンポジストが一般聴衆に分かりやすく自説を論じているからです。ところでこれらは勿論、出版されて年月を経ても定評があるものなどは講談社学術文庫などの文庫本に落ちますし、普通の書店にも流通しています。要は、一般向けで分かりやすい、さりとて年少者向けのものでないものであれば、問題はないのではないでしょうか。--ろう(Law soma) D C 2010年8月2日 (月) 02:02 (UTC)[返信]