Wikipedia‐ノート:Attribution

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翻訳に至る経緯はWikipedia‐ノート:独自の調査をご覧ください。

英語版では、2006年10月11日にSlimVirginさんによって初版が作成され、2007年2月に検証可能性と独自の調査を置き換えました。一番最初に遡るとこの文章になるようです。

翻訳開始時に基とした英語版は 00:50, 25 February 2007 の版です。英語版でもまだ本文が動いていますが、合意なしに大胆に変えて差し戻されている場合も多いので、新しく英語版本文を移入する場合はその編集の性格の確認をお願いします。--Aotake 2007年2月25日 (日) 03:45 (UTC)[返信]

現在の翻訳が基としている英語版は00:49, 22 March 2007の版です。--Aotake 2007年3月23日 (金) 06:33 (UTC)[返信]
すいません。ただ今、冒頭部だけですが、23:31, 2 May 2007の版からの訳に変更させていただきました(#冒頭部の訳出2)。 -- BBBeaver 2007年5月4日 (金) 22:43 (UTC)[返信]

冒頭部の対訳[編集]

Aotakeさん訳出お疲れ様です。どのような参加の仕方ができるのかよくわからないのですが、Aotakeさんの訳をベースとして、冒頭の部分(目次以前)を、少々読み下せるようにしてみました。

第一パラグラフの訳

Wikipedia は百科事典です。独自の考えの公表の場ではありません。ウィキペディアに記述するためには、いま記述しようとしている情報が、信頼の置ける情報源からのものであり、かつ、すでに一般に公表された情報源に基づくものであることであることが求められます。そして、その情報が真実であるのかそうでないのかについては問いません。つまり、ウィキペディアはあなた自身の意見、経験、主張を発表するための場所ではないということです。以降、「その情報が真実であるのかそうでないのかについては問わないが、信頼の置ける情報源からのものであり、かつ、すでに一般に公表された情報源に基づくものであることを示すこと」を、「出典を示す」と表記します。

第一パラグラフについて

以降で出典と典拠がつかわれていますが、どちらかに統一したほうがいいかと思います。いずれにせよ、上記のように一旦、定義する文章があったほうが以降がわかりやすいと思います。わたしの個人的には一般に広くいきわたっている出典にウィキペディアの定義を加えることでいいのではないかとおもい、ここでは出典で統一しています。

この定義でなくともよろしいのですが、日本語として共通理解されたattributable定義と以降での表記の一文を入れておくことが重要かと思います。


第二パラグラフの訳

ウィキペディアに記述されている内容はすべて、その出典を示すことができなければなりません。しかし、残念ながら、現実には、これまでの記述内容すべてにその出典が示されていたわけではありませんでした。これからは以下のようにおこなってください。その加筆部分が引用であれば必ずその出典を示す必要があるのはもちろんのことですが、編集に携わろうとする方々は、直接的な引用でない場合でも、事前に記述者自身が疑問を抱かれるかもしれないと思われるものについてその出典を示してください。さらに、出典を記述していない内容について、記述後、他のユーザーから疑問が呈された場合にも、その出典を必ず示してください。さらに記事自体の存在可否についてですが、記事のとりあつかう主題である記事定義に関して信頼できる情報源が存在しない場合、記事としてウィキペディアに掲載することができません。

第二パラグラフについて

全体の流れができるように構成しました。


第三パラグラフの訳

Wikipedia:Attribution はウィキペディアの2大コンテンツ方針の一つです。もう一つは、Wikipedia:中立的な観点です。この2つの方針により、コンテンツ(記事内容)として認められる情報の種類と質を決定しています。つまり、ウィキペディアのコンテンツ(記事内容)は出典を示すことができ、かつ中立的な観点から書かれたものでなければならないということです。この方針は相互に補完しあうものであり、別々に切り離して解釈しないようにしてください。この方針の重要ポイントが理解できるように、具体例や解釈の仕方がWikipedia:Attribution/FAQにあります。

第三パラグラフについて

コンテンツが日本語になっているのでcontentはコンテンツとし、また、「2大コンテンツ方針」とまとめたほうが意味が通ると思います。もしくは文脈ではコンテンツを「記事内容」と訳すほうがわかりやすい場合がありますね。内容よりは記事内容の方が意味が租借しやすいかと思います。ただし方針となると記事内容方針というよりコンテンツポリシーやコンテンツ方針の方が通りがいいと思いますが。

Wikipedia:Attribution Wikipedia:出典を示すもしくはWikipedia:典拠を示すのいずれかですね。わたしは出典派ですが。

以上ですが、ここにこのような書き方でよろしいのかなあと思いつつ書き込みました。変なことなどありましたらその旨ご教示ください。よろしくお願いいたします。--Pararinpooh 2007年2月27日 (火) 08:45 (UTC)[返信]

私は英語ができないので、あくまで日本語として読んだ限りの印象としては、Aotakeさんの訳を好ましく思いました。Pararinpoohさんにはせっかくご提案いただきながら申し訳ないのですが、比較材料を提供していただき、おかげで文章の趣旨がより理解しやすくなったことを感謝申し上げます。
いくつか具体的にいいますと、まず冒頭2行目の「なにが分かれ目なのか」というAotakeさんの表現が端的でわかりやすいと思います。
original thoughtは後段でoriginal researchと対になって出てくる用語で、「独自研究」との並びで考える必要があると思います。この点からすると、(独自の)「思考」や「考え」より「独自の考察」とするとしっくりくるような気がします。一方のoriginal researchですが、「独自研究」というのはWikipedia‐ノート:独自の調査#再度、正式化へ向けてで合意ができているとのことですが、これが「合意」といえるか少々疑問があるのと、今回のような並びでの検討はされていなかったと思いますので、再度詰める必要があるように思います。「の」がない方が熟語的かつ専門用語的である、という主張がありましたが、ではoriginal thoughtも「独自考察」とするのかという話です。この意見にはいまだに納得できていないもので、個人的には「独自の研究」の方がバランスがよいと思います。
「出典」と「典拠」については、広辞苑(第5版)で確認したところ、出典が「故事・成語・引用句などの出所である文献・書籍。またその出所。典拠。」、典拠が「(言葉や文章などのもとになった)よりどころ。出典。」となっています。どちらも同じ意味で通用しますが、ニュアンス的には、どちらかといえば「出典」は言葉をそのまま引用する場合に使われるのかな、という感じです。それで、方針名としては「典拠」を採りたいと思います。もちろん、個々の文脈でより相応しい表現がある場合は適宜使い分けしてよいと思います。
「内容」と「コンテンツ」については、カタカナ書きしないですむならそれに越したことはありません。「内容」だと意味が通じにくいということがあれば話は別ですが、そうは思えません。--みっち 2007年2月27日 (火) 10:28 (UTC)[返信]
みっちさん、コメントありがとうございます。わたし自身、Aotakeさんかわたしかとは思っておりませんので、その点はここに記して置きます。全体を理解されて主体的に行動されているAotakeさんの視点には、わたしは到底およびません。わたしが記させていただいた主たる理由は、その逆に、この文章だけよんだ人にもその意図を間違いなくつたえるにはという視点です。そのため英語の文章直訳ではなくなっています。てにをはの枝葉末節や用語の正確性には実のところあまりこだわっておりません。どちらかというと文章の流れに重点をおいています。いくらかでも生かしていただけたらという気持ちで記しました。以上、よろしくお願いいたします。--Pararinpooh 2007年2月27日 (火) 10:51 (UTC)[返信]
Pararinpoohさん、みっちさん、さっそくありがとうございます。まず、分かりにくい点やこなれていない点も多々あると思いますので、誤訳の訂正や内容を大きく変えない修正についてはどうぞ直接解説本文をいじっていただければと思います。また、私も全体を理解しているかはなはだ心許なく、多くの方と忌憚なく意見を交わせれば一番よいのではないかと思いますので、どうか私の編集がどうといったことはお気になさらぬよう、宜しくお願いいたします。ということで、さっそく、以下、いくつかご提案いただいたことに対して気付いた点を申しあげます。
Attributionの訳語、すなわち方針名については、なかなか合意が形成できないのではないかなあという気がしていて、ある程度案が出たところで投票するのが妥当かという予感がしていますので、まずは、多くの方から案を出していただくのが何よりと思います。
典拠と出典については、個人的にはどちらも違和感がなく、混ぜて使ってもいいのではないかとも思いますが、独自の調査のノートでも典拠という語は一般の認知度が低いかも知れないというような趣旨の指摘がありましたし、出典に統一すべきだということであればそれでかまいません。
original researchの訳語については、ひとまず独自研究という言葉を使うようにしましたが、私も「の」の有無は特に意味に影響を与えず、場所によっては「の」があったほうが座りがよいのではないかと思います。original thoughtの訳語については私も悩みます。実は、ここでは「意見」という意味で使われているのではないかと推測するのですが、不加算名詞になっているようなので、思考と訳しておく方が無難かなと思ってひとまず思考という言葉を使いました。確かに思考よりは「考察」の方が座りがよいと思いますし、大きく意味が変わるとは感じないので、考察にしてもよいとおもいます。
第2段落の「実際はすべてのものについて出典が示されているわけではありません。」についてですが、原文には「残念ながら」とか「今後は示さなければならない」というニュアンスはないと思います。むしろ、この方針を根拠に出典のない記述を片端から削除しようという考えは後段で否定されているわけで、実際には全ての情報について出典を明記しなければならないわけではなく、「出典を出してくださいといわれたらいつでも出せるような情報しか書いてはいけない」というのが趣旨ではないでしょうか。
contentsの訳語も実はちょっと悩みました。というのは、カテゴリでCategory:コンテンツガイドラインというのがあるので、コンテンツの方がいいのかな、とも思ったのですが、個人的な趣味で内容という言葉を選びました。強いこだわりがあるわけではないので、みなさんの編集に任せます。
いろいろと細かい点について、はっきりしないことを申しあげましたが、引き続きよろしくお願いいたします。--Aotake 2007年2月27日 (火) 13:51 (UTC)[返信]
訳出作業お疲れ様でした。大変失礼ながら幾らか推敲に参加させて頂きます。趣味的に過ぎない変更もあることでしょうし、非礼に感じられることもあるかもしれませんが、どこまで口を挟むべきか悩みつつの修正ですので、お汲み取り頂ければ幸いです。当然直した箇所がかえっておかしいことがあるかと思います。更なる精査をお願いいたします。--磯多申紋 2007年2月27日 (火) 23:33 (UTC)[返信]

私の方も推敲を加えました。上で出た意見もあちらこちら取り込んでみましたが、如何でしょうか。それと、ほんとうに、「失礼」とかそういうのはどうかなしにしてくださいませ。よりよいものになるのなら、どんどん変えてくださればと思います。--Aotake 2007年3月3日 (土) 03:23 (UTC)[返信]

A「ウィキペディアにある情報はすべて信頼できる。ウィキペディアにある情報は公表された資料を典拠として示すことができなければならない。」 B「ウィキペディアにある情報はすべて次のものを示すことができなければならない。”信頼できる公表された資料による典拠”」 AではなくBですよね。なので句読点はC「ウィキペディアにある情報はすべて、信頼できる公表された資料を典拠として示すことが、できなければならない。」のほうがいいと思うのですがいかがでしょうか。Imo758 2007年5月4日 (金) 07:53 (UTC)[返信]

要旨のところですね。ご指摘ありがとうございます。たしかに分かりにくかったので直してみました。いかがでしょうか。言い回しなどについてはこなれていないところも多々ありますから、お気付きの点はぜひ本文をいじっていただければと思います。(英語版もまたいろいろ動いているみたいですしね。)--Aotake 2007年5月4日 (金) 12:41 (UTC)[返信]

あらためて典拠と出典[編集]

方針名に関わるAttributionの訳語について、あらためて私の意見を示します。結論からいいますと、方針名として「典拠主義」がよいと考えます。以下に理由を述べますが、上で私が書いたことも含めて整理しました。

  • ひとつは、典拠と出典について、広辞苑に加えて、手持ちの辞典類2冊を当たってみました。その結果を示します。
    • 「出典」……広辞苑(第5版)「故事・成語・引用句などの出所である文献・書籍。またその出所。典拠。」、新明解国語辞典(第1版)「故事・引用語などの出所(と考えられる本)。」、字通(白川静)「故事・成語などの典拠。また、その書。」
    • 「典拠」……広辞苑「(言葉や文章などのもとになった)よりどころ。出典。」、新明解国語辞典(第1版)「信用できる文献に見えるよりどころ。」、字通(白川静)「実証の根拠とする文献。」
  • 以上を比較すると、「出典」は故事・引用句など対象が比較的限定的であるのに比べ、「典拠」は拠り所とする文献を広く指しており、Attributionがめざす方針とは、結局この「拠り所」を指していると考えられることから、より相応しいのは「典拠」ではないかということです。
  • もう一つは、「出典」と「典拠」の訳語としての整合性と統一を図る観点です。というのは、ウィキペディアのガイドラインWikipedia:出典を明記する(Wikipedia:Citing sources)と現在翻訳中のWikipedia:信頼できる情報源(Wikipedia:Reliable sources)を見ると、sourcesに「出典」あるいは「情報源」という訳語を当てています。その上でAttributionにも「出典」を当ててしまうのは、用語や方針の混同を招くと思います。Attributionに「典拠」を当てることで、大方針と具体的な方針・ガイドラインとの差別化を図ることができます。
  • また、認知度という点では、「典拠」は「出典」よりなじみが薄いかと思いますが、これは英語でのattributionとsourcesの認知度の差に近い状況があるともいえるのではないでしょうか。であれば、この認知度の差自体が、「典拠」を支持する材料になり得ます。

上記をふまえれば、方針名はずばり「典拠主義」ということになるのではないか、と考えます。言葉の響きが固い感じがあるかもしれませんが、現状でこれより方針をよく体現する言葉があるようには思えません。あるいは口語的に「典拠に基づく」でしょうか。「典拠性」とすると少し柔らかいですが、こういうところで曖昧な要素を持ち込むのはむしろ好ましくないのではないかとも考えます。

以上ですが、内容は典拠と出典の比較だけなので、他に考えられる案にはもちろん対応できていません。あくまでも議論の材料を提供したいという気持ちから提案するものです。より相応しい言葉が提案されることも含めて、これをたたき台にしていただければ幸いです。--みっち 2007年3月5日 (月) 07:39 (UTC)[返信]

みっちさん、ありがとうございます。すぐにコメントをつけなくてすみません。えーっと、私の意見はあんまりまとまっていません。「典拠」という言葉は私もいいと思いますが、「主義」のほうは、「典拠主義」は批判的に用いられる場合もあるので、ちょーっとどうなのかなとも感じています。ただ、短くすっきりとしている点はとてもよいと思いますし、これに代わるものを考えると、どうしても「典拠のあるもののみを云々」とフレーズになってしまうように思われて、よい代替案があるわけではありません。また、意見がまとまらないかな、と思って「検証可能性」の名前でリリースすることを提案していますが、もし「典拠主義」で反対がないようでしたら、典拠主義でリリースするほうが混乱が少ないだろうと思います。とにかく、優先事項としては「独自研究の排除を正当化する方針の整備」が最優先なので、「典拠主義」で合意形成がされるならばそれでリリースするのがベストだと思います。というわけで、思考過程がぐちゃぐちゃしていますが、結論としては他の意見がしばらくつかなければ、典拠主義でリリースするのがよいと思います。どのくらい待ちましょうか。1週間では短いですか?--Aotake 2007年3月10日 (土) 02:43 (UTC)[返信]

みっちさんご提案ありがとうございます。attributionは直訳では「属性」とか「帰属」とかになってしまって、「情報の帰属」などと不自然な日本語を使うことになると思っていたので、「典拠」というのはなかなか名案だと思います。ただ、「典拠主義」となると微妙かもしれません。「典拠」はよいのですが、「主義」の側が文脈によって意味がかなり流動的だと思うからです。たとえば「事なかれ主義」といえば「行動の指針」などをさしますが、「資本主義」といえば「体制・制度」のようなものをさします。「民族主義」「ユダヤ主義」のような「主義」を簡潔に定義することはいささか難しいと思います(私自身のレベルが低いだけ、という気もしますが)。また、英語版のGFDLが名詞中心、単語中心の表現が多いのに比べ、日本語版は口語を重視し、句で表現するということが多いと思います。なのでそれらとのバランスも考慮し、さらにGFDLは全利用者にとってわかりやすいことが第一であることも勘案すると、みっちさんが第2案として提示してくださった「典拠に基づく」がよいのではないかと思います。--Ich57 2007年3月10日 (土) 02:32 (UTC) どうやら、Aotakeさんと編集時間がかぶったようです。--Ich57 2007年3月10日 (土) 03:43 (UTC)[返信]

私も「典拠に基づく」あたりが良さそうに思います。「典拠主義」も良いかと思いますが、主義主張という感じに捉えられるとわずかにアクが強いかな、という気がしました。考えすぎかもしれないとも思いますが、かなりの基本方針なので無難にできるのであればその方が良いかと思います。まずは、本項のタイトルをAttributionから変更しても良いかと思います。それ自体は翻訳としての作業かと思いますし。--磯多申紋 2007年3月10日 (土) 15:20 (UTC)[返信]
「典拠」を含んだ呼び名がいいとおもいます。「出典」だと source とおなじで、「情報源を示せばいい」というように受け取られがちだとおもいます。「典拠」だと「吟味された(される)出典」という意味あいになるでしょう。
「典拠主義」でも悪くはないとおもうのですが、よそのノートで否定的に使っている (つまり上の「ソースを示せばいい」という立場の) ひとがいたので調べたところ、どうもこういったものに影響されているようです (このページの内容自体は問題ないです。関係者はちゃんと典拠主義を実践しているのですが、専門用語っぽいものを見るとフィーリングで解釈してほかの事象にも適用しようとする読者がいる、ということ)。そういうわけで、いかにも用語然とした「典拠主義」ではなく、開いた表現にしたほうがいいとおもいます。
典拠を示す」「典拠が必要」「典拠に基づく」あたりで。--Hatukanezumi 2007年3月11日 (日) 05:29 (UTC)[返信]

著作権法のattribution[編集]

こんにちは。

現在、典拠xxでまとまりつつあるようですが、いまいちど問題提起をさせてください。

Attributionの訳についてですが、これは著作権法上の定義としてのAttributionですね(en:Attribution (copyright))。著作権法上でどのように表現されるのか、日本にその表現があれば一番適切ということになります。

Webをのぞいてみましたが、クリエイティブ・コモンズの解釈論で、CCのAttribution-ShareAlikeに関してもいろいろ解説されています。そういったなかでAttributionは「帰属表示」と訳し解説ているのが多く見受けられますが、その他、http://www.kanzaki.com/docs/sw/ccm.html では「Attribution(クレジットの明示)、コンテンツのクレジット(出典)を示す必要があるかどうか」としていますね。

出典、典拠があり、それを明記すること、つまり「出典・典拠について著者名、著書名などの必要事項を表示すること」をいっています。

つまり出典または典拠の帰属表示=Attribution、いいかえるとそれが「クレジットの明示」であると。 そうするとattributableは、要求されればいつでも帰属表示ができる、いつでもクレジットの明示ができるという意味ですね。

私の意見ですが、クリエイティブ・コモンズの解釈同様、Wikipediaの影響力もけして無視できないとおもうので、Attributionの訳が今後多方面で引用・解釈されることを考えると、著作権法上の定義をあまり意訳するのもよくないなと思います。

ですので、情報源または出典または典拠があるなしということのみではなく、それを明示・表示することをAttributionといっているということをきちんとつたえられる訳であるのが望ましいと思います。

と考えると、Wikipedia:Attributionは、直訳だと帰属表示や帰属明示だけど一般的にはそれだけだと意味不明ないので「attribution to a source」までの意味で「情報源の明示」とか「情報源の表示」あたりが妥当と考えます。もう一歩踏み込んで「信頼できる情報源の明示」でもいいですけどさらにいくと「公表された信頼できる情報源の明示」ですが。

たとえば:

The threshold for inclusion in Wikipedia is whether material is attributable to a reliable published source, not whether it is true. Wikipedia is not the place to publish your opinions, experiences, or arguments.

(現時点)ある情報をウィキペディアに掲載できるかどうかの分かれ目は、それが真実であるかどうかではなく、その情報が信頼できる媒体で公表された情報を典拠として示すことができるかどうかです。

その情報が真実であるからといってウィキペディアへ掲載できるものではありません。ウィキペディアへ掲載される情報は「公表された信頼できる情報源が明記できるもの」であるということです。

という風になるかと思います。(この主旨と関係ないですがthresholdやwhetherはこのような訳が日本語らしいと思いますが)

また、Attributionが出典や典拠それ自体ではなくそれへの帰属表示であり、sourcesが情報源=出典=典拠であるので、情報源、出典、典拠については、これらのうちのどれか一つでWikipedia内を統一するのが好ましいとも考えます。

わたしは、Attributionは明示することクレジットすることに重みがあるので、そのために新たに典拠をつかうより、また出典をつかうより、『情報源が公表され信頼できるものであること』を解説することに努力をしたほうが素直に意味がつたわると思いました。

(現在の訳ではちょうどこれら3つがつかわれているのですが、これだときっとわかりづらいだろうなと思いました。)

以上、ここまできてなんだとおっしゃられるかもしれないのですが、今一度、このあたりをご議論いただきたく、提起させていただきました。よろしくお願いいたします。--Pararinpooh 2007年3月12日 (月) 01:58 (UTC)[返信]

精緻なコメントをありがとうございます。2点について議論の足しになることを願ってコメントいたします。
厳密に分析したわけではありませんが、少なくとも現状Wikipedia:出典を明記するen:Wikipedia:citing sources)が別立てであることからすると、Attribution自体の守備範囲としては、出典の「明記」「明示」に焦点が置かれているわけではないように思います。Attributionのメインの訳として「帰属」が宛てられることはご指摘のとおりかと思いますが、「(帰属)表示」までの意味が当然に込められているわけではないのではないかとも思っています。この辺りは意味の充填的な意訳が余儀なくされるところで、文脈に応じた訳がむしろ求められるのかとも感じています。
ウィキペディアの記事の文章についてGFDLとして利用が認められるものとしていくことを考えると、出典の著作権そのものをウィキペディアの記事は引きずってはいない(むしろ引きずってはいけない)のかと思います。その意味では、ここでのAttributionは厳密な意味での著作権法上の概念でもないように思います。もちろん隣接分野なので、適宜整合性が取れていることは妥当だと思いますが、分かりやすくするための意訳との兼ね合いの問題かとも思います。--磯多申紋 2007年3月12日 (月) 14:19 (UTC)[返信]
私は、むしろ著作権を連想させてしまう「帰属」を、ここでは使わない方がいいと思います。ここでの主眼は、書かれてる「内容」に典拠があることであり、内容はそれ自体が著作権の対象になるものではありません(というか、内容について、出典に著作権が帰属するのならば、そもそもウィキペディアにGFDLとして投稿することができないわけで)。あくまで「文章についての著作権の帰属」と「内容についての典拠(の帰属)」は別物だと。ところが、ここでどちらについても「帰属」という語を使うと、それが一人歩きしてしまって、結果的に初心者や外部の人など、詳しくない人が混同してしまう可能性が高いんじゃないか、と思ってます。なので、Attributionについては帰属とは別の言葉を用いた方がいいかと。--Y tambe 2007年3月13日 (火) 02:51 (UTC)[返信]
英語のattributionは、ごく普通の一般的な名詞であって、別に著作権に関する専門的な法律用語というわけではないと思います。意味としては「(権利、義務、功績、名誉、悪名、等々を)~に帰属させる 」のようなことで、Wikipediaのガイドラインとしての意味は「記事の記述を、その記述の根拠となった出典・典拠に帰属・リンクさせる」ということで、結局「出典を明記する」になると思います。
Wikipedia:出典を明記するen:Wikipedia:citing sources)はスタイルマニュアルですから、ポリシーやガイドラインではなく、記載・表示の方法・様式についての決まりを書いているのだと思います。これが別立てになっているからと言って、「Attribution自体の守備範囲としては、出典の「明記」「明示」に焦点が置かれているわけではない」ということにはならないでしょう。
ということで、ひとつのオプションとして、Attributionを「出典(又は典拠)を明記する」にして、Citing Sourcesの方は「出典(又は典拠)の表示方法」に改名することも考えられると思います。ただ、私としては、この提案にこだわるものではなく、どちらかと言えば「タイトルなんか何でもいいから早く公式の方針にしてしまえよ」という意見であることを申し添えます。--Dwy 2007年3月13日 (火) 05:43 (UTC)[返信]
法律用語として「帰属」が使われているのでしたら、避けるほうが無難かと思います。「出典に基づく」か「典拠に基づく」のどちらか、あるいは「出典主義」「典拠主義」のどちらかということならば「でどころ」と「よりどころ」の違いに帰結できるのでしょうか。ここからあとは感覚的なものですが、「典拠に基づく」を支持したいと思います。「明記」という言葉はすでに Wikipedia:出典を明記する で使われていて、その項目名はそもそもスタイルマニュアルっぽくない、、ということは同意ですけれど、そちらの調整はやはり後回しが適当かと。--スのG 2007年3月13日 (火) 06:10 (UTC)[返信]
えーと、早くリリースしたほうがいいとはおもうんですがあと一言だけ。日本語の語感に基づく意見です。
ウィキペディアの方針の呼称であるので、
  • 読者(編集する利用者)が主語になる、言い切りの表現
であるほうがいいと考えます。ウィキペディアの方針というのは、利用者の行動規範なので。
...everything in Wikipedia must be attributable... といった表現は英語的なもので、これをそのまま日本語に移すと「記事はみんな、典拠に基づかなければならない」となって、利用者が消えてしまいます。ここは本来、「自分が編集したものには自分で典拠を示せるようにしろ」という話のはずです。
したがって、方針の呼称として考えるのなら、「典拠を示す」でどうでしょうか。--Hatukanezumi 2007年3月13日 (火) 13:24 (UTC)[返信]

(インデント戻します。)ある程度の意見は出ていますし、特に題名案が大きく散らばっているわけでもないかと思います。どれが抜きん出て優れているというものでもないかと思いますし、将来的に修正が不可能でもありません。私は先にWikipedia:出典を明記するとの棲み分けを指摘しましたが、最低限二つの方針の区別が付けばよいかと思います。この部分は翻訳の一環だと思いますし、例えば、全般的に精度の高い翻訳を担当していただいたAotakeさんが支持される案があれば尊重したいと思います(責任を押し付けているつもりはないのですが、そう感じられたらお許し下さい。)。--磯多申紋 2007年3月13日 (火) 18:28 (UTC)[返信]

いろいろとご意見、ありがとうございます。Attributionという用語の選択に、著作権法における用語が念頭にあるかもしれないということは、Wikipedia‐ノート:独自の調査のほうで私も話題にしました。ただ、私が思っているのは、英語版の執筆者達はattributionということばを選んだ時に、著作権法のそれそのものとして用いただろう、というわけではなく、attributionということばがそのような使われ方もされる語であるということが、言語感覚として背景にあるだろうという程度のものです。一応、日本語での表現については、Ks aka 98さんがちょっと調べてくださいましたが、一般的な定訳というのはないのかもしれません。このあたり、専門の方のご意見を伺えればとは思いますが、定訳があったとしても、必ずしもその定訳を用いるべきとは言えないでしょう。なぜかといえば、この方針で述べているのは、あくまでattributable、つまりattributeできなければならない、ということであって、著作権法で言うところの「帰属表示」としてのattributionそのものを義務づけているわけではないからです。ですから、どちらかというと、私は著作権の問題と無理に関連付けないほうがよいだろうというご意見に賛成です。ほぼ同じ理由で「典拠を示す」としてしまうと、「示す」ことが主眼になってしまいますが、ここで問題にしているのは「典拠が示せる」ことであって、「示す」ことそのものではないのでちょっとずれてしまうかなと思っています。
またウィキペディアの方針として規定したいのは、典拠を示すことだけではなく、それと同じかそれ以上に、典拠に忠実であること、情報を勝手に付け加えず、典拠の内容からはみ出さないことですから、そういう意味では「典拠主義」というのは、本方針の性格をよく表していると思うのですが、いくつかご意見が出ているように、「主義」ということばが無駄にとっつきにくさなどの原因になるのが心配でもあります。そういうわけで、いままで出ている中では、やはり「典拠に基づく」か、「典拠主義」がベストかなあと私は思います。あるいは、「典拠」だけでもいいのかなと思うのですが、ちょっとあいまいすぎるでしょうか。
なお、私は出典と典拠と情報源を併用することには問題を感じないのですが、統一するのであれば、難しくても典拠がよいと思います。情報源ということばをわりと多用しているのは、検証可能性や独自の調査の翻訳を踏まえているのと、出典ということばをみると「書籍のみしか参照できない」と勘違いする方を何度も目にしてきたので、情報源ということばも使うことで少しでも誤解を減らそうとしてのことです。ですが、せっかく典拠や出典ということばがあるのに、情報源ということばだけを使うのには、あまり賛成できません。ただ、典拠ということばに統一してしまうと、「問題のある典拠」などとしなければならなくなるでしょうが、典拠には「信頼できる」という意味を含ませて解釈する辞書などもあることを考えると、語義矛盾とみる向きもあるかもしれません。いかがでしょうか。長くなってしまい、またさしたる決定的意見にもなっておらずすみませんが、もう少しお付き合いいただき、ご意見お寄せいただければと思います。--Aotake 2007年3月14日 (水) 14:35 (UTC)[返信]
再び失礼いたします。やはり結論から言うと、私は「典拠に基づく」か「典拠主義」がよいと思います。理由はいくつかあるのですが、
  • 出典(source)との違いを明確に出来ること。
  • 日本語「典拠」は「信頼できる」情報源、という意味を含んでいること。
  • あくまで「典拠を示せるようにする」(attributable)ことが主眼であること。
  • 「主義」の語を回避できること。(語調からすると捨てがたい気もするが。)
「典拠」は示すべきですし、示されるべきですが、一字一句の根拠までをすべて記事に書き込んでいったのではきりがありません。この規定が主張するのはattributableであること、つまり「(もし要請があれば)示せるだけの用意をして(それだけの確かな情報源を持って)執筆せよ」ということだと思います。また英語版Wikipediaはガイドライン系の「名称」として名詞形を用いる傾向にありますが、原文を見る限り重視すべきは名詞 attributionよりも形容詞 attributableではないかとも思います。
Aotakeさんが心配なさっている「問題のある典拠」ですが、「典拠として問題がある」といえば、日本語として間違いのない言い回しになるかと思います。
ページ名としては「典拠主義」、本文では「典拠に基づく」としてもよいかもしれません。「検証可能性」と「検証可能であること」の例が参考になるかもしれません。

--Ich57 2007年3月14日 (水) 14:50 (UTC)追記しました。--Ich57 2007年3月15日 (木) 00:55 (UTC)[返信]

情報源の質[編集]

みなさん、疑問提示にコメントコメントいただきありがとうございました。著作権ではないということ了解いたしました。また、明記ではないということも了解いたしました。Ich57さんの、attributionとattributableの英語版での使い方の説明はわかりやすいです。みなさんのコメントで私も主旨が理解できましたし、ノートにあることで今後の方の参考になると思います。
しかしながら、「出典=典拠=信頼できる情報源」という事に関しては、そうではないという確たる情報はいただけておりません。この点は後で触れたいと思います。
またAotakeさんのattribution/attributedについてそのとおりと思っております。
<タイトルについて>
で、Attributionということになりますが、この文章での意味は、「attributable to a reliable published source」ということであり、コンテンツに記述された情報が"あるsource(情報源)"からとられて、そのsourceがreliableかつpublishedであることが必要ということと理解しています。この理解から意訳するなら、「情報源の質」を提示しているのだといえないでしょうか。以降の説明はWikipediaで記述できる情報の情報源の質についてのものだということです。出典とか典拠とかというより、その出典や典拠がreliableかつpublishedだということをいっているのであれば、それは出典や典拠の質と表現するのではないでしょうか。みなさんが典拠にこだわるのも、出典と典拠の違いにその質の違いがあると見ているからではないでしょうか。わたしは「情報源の質」、または「信頼ある公表された情報源」そのものずばりでもいいのではないかとおもい、このどちらかを提案したいとおもいます。
<現在のWikipedia:出典を明記するとのバランスについて>
さて、Dwyさんから明確にご指摘いただいたWikipedia:出典を明記するとのバランスというご意見にまったく同感いたしました。「出典を明記する」はこちら側のタイトルですね。あちらの英語版では、Manual of Styleのガイドラインであるという、読者にわかりやすい区分を設けていますね。冒頭に書いてあることで読み進める前にどういう心得で読むものかの助けになります。あちらの日本語版は実際は「明記」ではなく「表記」ですね。表記方法グループをつくって「Wikipedia:表記方法:出典の表記」みたいなのがわかりやすいと思います。これに対応する「出典の明記」もわかりやすいですね。ただ、皆さんのおっしゃるようにすべてがすべて明記ではないのはたしかと思いますので、上記のように考えました。
<典拠と出典>
さて、わたしがこれにこだわるのは以下の理由からです。
まず、私自身は一般の社会人としてそれ相応の時間を過ごしてまいりましたが、典拠というのははずかしながら今回知りました。ですからまったく確実なものでないことはおことわりさせていただきます。個人的ではありますが、やはり、典拠は一般的な用語ではなく、ある特定分野で用いられているのではと思います。そうではないということで情報をいただけることが、私だけではなく今後この方針に触れる皆さんの何らかの助けになるのではないかと思いまして、まずは記述いたします。
調査したのはWebの情報だけです。その範囲では、出典も典拠も非常に近い概念だと思えるのです。ただし典拠は学術系特に図書情報系の専門用語として多く使われているバックグラウンドがあるようです。このことが「より信頼できる」という意味をみなさんが典拠にもつ理由なのではないかと勝手ながら想像します。
また、出典と典拠が同時に使用されている例は多くありません。同時に使用されている場合は、典拠を「出典を集合体として扱った意味」(たとえば出典一覧を提示することを指したり、出典一覧を指して「典拠一覧」と表現したり)で使い、出典は個々の出典元を指し示しているようだということです。学術系での混在時は典拠は通常「典拠xxx」のような形で明確な意味をもって専門用語として用いられ、一方出典は個別の情報源をさしているようです。
また、「典拠xxx」の専門用語でない場合、
  • 典拠と出典は同列で「典拠(出典)」とされる
  • 「典拠として示す」や「典拠を示す」という決まったフレーズで用いられる
というのがあります。
「典拠として示す」は、典拠を個々の出典の集合体として捉える図書情報系からくる意味での表現のようで、『「出典一覧」「典拠一覧」を提示する』という意味で使われているようです。ですから「典拠として」となっている。これが「典拠を示す」というのも典拠が集合的に使われることから考えて同様の意味のように思えます。
この用法は「典拠」として「示す」のではなく「典拠として示す」というフレーズとして専門用語と捉えることが必要だと思います。
私は、みなさんが典拠を採用される背景は、この「典拠として示す」というフレーズとしての用法からこのフレーズで用いられている「典拠」を解説しようとしているのではないかなと。これは「出典一覧を示す」というのを「典拠として示す」やその省略形の「典拠を示す」と表現する業界(学会?)の慣用句ではないかなと想像するものです。
図書情報系で使用されることからだと想像するのですが、抽象的に「典拠」を使用し、個別の情報源を「出典」と称しているようです。しかし、このような混在例は少ないです。
わたしは言葉の意味では、典拠、出典共に「信頼できるsource」であるということが基本の意味だというのが一番納得できます。その点で基本的には、出典=典拠=信頼できる情報源ということで用語を用いないと一般の概念とずれてしまうと危惧しています。
典拠は専門用語としての使用が多いように思えます。また、それぞれの領域で使用状況に違い(くせ)があるようにも思います。出典にはこの違いがなく一般に広くプレーンな意味になっていると思います。典拠と出典をかなり違ったものとして捉えて方針の文章が作成されると、完成後の読者の理解が異なるものになると思います。その意味で、出典=典拠=信頼できる情報源ではないとするなら、それぞれの違いを説明する場所が必ず必要です。ただし、そうすることで、出典と典拠の用い方の新しい例をつくってしまうことになる気がします。
いまのところわたしには典拠をつかう必然性は理解できません。典拠というものに触れることなく日ごろ過ごしている人間には、典拠と聞いても特に出典より信頼性あるものとは思えないです。そういう人にはAttributionをアトリビューションとされても典拠とされてもほとんどおなじ役割を果たし、効果をもたらすだけなのではないかなと思えるのです。また、典拠とは出典よりも信頼性あるものなんだよと説明されるのは、真実ではないとおもうので、それであれば、Wikipedia用法(用語)での典拠とはそういう意味なんだという説明がなされるのが必要だと思います。英語版でのoriginal researchのようにwikipedia jargonをつくるという決意でいくという合意のもとであれば、そうなのかとは思いますが。
用語はどうでもいい、精神が先だというのもわかりますが、精神がわかっているひとだからいえる言葉だと思います。方針は、精神を理解してもらうためにあるので、これから精神を理解してもらうには用語とその表現が大切となると考えます。方針は理解されてこそ方針です。わかりづらい表現は解釈の対立を生みます。方針が憲法や法律のように裁判官と弁護士など別に解釈者が必要になっては困りますよね。
わたしには、みなさんが、「典拠」に、みなさんの理想を託して使用しているように思えます。言葉の持つ意味以上の期待を込めて使っていると思えるのです。
<最後に>
明示しないとわからないひとはわかりません。その意味で、「情報源の質」、または「信頼ある公表された情報源」をタイトルにしたほうがわかりやすく、その意味で内部でわざわざ典拠という用語を用いることは逆効果だと思うものです。
Wikipediaはその記事執筆でも急ぐことはないといっているのですし、また、英語版でも10月から4ヶ月くらいかけているのですから。しかもコメントの数はものすごいですね。英語版と別に日本で独自にという立場であればなおさらのこと、ここはじっくりいくべきではないでしょうか。以上、よろしくお願いいたします。--Pararinpooh 2007年3月15日 (木) 03:07 (UTC)[返信]
「理想を託している」というご主張の意味がちょっとわかりかねるのですが、ひとまず典拠という言葉はどの国語辞典にも載っていると思いますし、学術の世界では「情報源」よりもはるかになじみのある言葉だと思います。出典や典拠は、学術書や論文に散見されますが、「情報源」という言葉を使っているところは、私はあんまり見たことがありません。「参考文献」のかわりに「出典一覧」はあり得るでしょうが、「情報源一覧」と書く人はあまりいないのではないでしょうか。逆に私などは、情報源というと、広辞苑に「情報の出所。ニュース・ソース」とありますように、ニュースやゴシップの出所という印象を持ってしまいます。そういうこともありますし、またせっかく、漢語としても、日本語としても出典や典拠ということばがあるのに、通じない人がいるからといってすべて情報源という言葉に置き換えるべきだというご意見には、個人的には首肯しかねるのです。私自身は、典拠と出典と情報源はほぼ同義の語と理解していますが、だからこそ、もし本方針から「典拠」や「出典」ということばが駆逐された状態で初めて接したなら、私ならむしろ、なぜ、出典といった熟した語があるのに、情報源という言葉しか使っていないのだろうと思うでしょう。
ちなみに、「図書情報系」で「典拠」がよく使われているというのは、書誌管理の概念として「典拠」というのがあって、インターネット検索をすると、多くのOPACのせいでそれらが上位を占めるからだと思いますが、文学や語学などの人文系の学問でも「典拠」は普通につかいます。国立情報学研究所 論文情報ナビゲータなどで、「典拠」をキーワードに検索していただければ、その一端をご理解いただけるでしょうか。--Aotake 2007年3月15日 (木) 07:50 (UTC)[返信]
Aotakeさん、コメントありがとうございます。まず、ご教示いただいた国立情報学研究所 論文情報ナビゲータで典拠と出典を引いてみました。「典拠」が図書情報系だけでないことが確認できました。実は、私自身、掲載前の元の記述は「学術系」と書いていたのですが、推敲時点で、自分が見つからないものはかけないと思い直し、自分が見つけた「図書情報系」だけと明記しなおしたのでした。いただいた情報検索で図書情報系に限らず学術系一般で使われていそうなことが確認できました。ありがとうございます。そういうことで、わたしの論点自体には変更ありません。百科事典は学術や論文の世界だけではないので、学術や論文での基準だけでは決められないと思っているからです。
また、わたしは「情報源」という単体の表現にはにこだわってはおりません。「信頼できる公表された」ものであることを認識してもらうのがこの方針の役割だと思っています。「信頼ある公表された」に続く言葉として、「情報源」がもっとも平易で自然だとおもったためにくっつけているだけです。
「出典」、「典拠」、「信頼ある公表された情報源」のどれが、方針の意味を一般にわかりやすく伝えられるかを考える上で、出典や典拠という文字にその意味を込めてしまうよりは、具体的に「信頼ある公表された情報源」と表記するのが、もっとも伝わりやすいと思えるからだけです。
同時に、出典や典拠や情報源を混在させた文章を書くよりは、「信頼できる公表された情報源」を繰り返すほうが、方針を徹底させるという意味でよりよいのではないかと思うからだけです。
  • 「信頼できる公表された」ものであることを理解してもらうのがこの方針の役割
  • 平易で、多くの人に理解できる、表現、用語、文章にしたい。
  • 同じ意味を表すところでは同じ言葉を繰り返し用いることで、上記2点を徹底したい
という考えからのものです。私はこの部分が決着しないと文章の内容を最終的に固めることはできないなと思っております。逆に、これが明確になれば、文章はもっと読みやすくなるのではとも思っております。以上、常に勝手な意見ばかり申し上げて恐縮ですが、よろしくお願いいたします。--Pararinpooh 2007年3月16日 (金) 02:04 (UTC)[返信]
みっちです。提案だけしてその後の議論に加われず、申し訳ありませんでした。この間、流れは追っていましたが、考えをまとめてコメントする時間がとれませんでした。また、私の提案はいささか大胆すぎたかもしれないと思っていましたが、概ね好意的に受け止めていただけたことを感謝申し上げます。それで、私の意見はすでに述べた以上付け加えることはほとんどないのですが、あともう1回だけ補足的にコメントします。
なかなかぴったり表現できる言葉が見つからないのですが、この方針がWikipedia:中立的な観点と並ぶ二大方針であることをもう少し考慮に入れてよいのではないかということを書きたいと思います。この二つの方針は、編集に当たっての具体的あるいは技術的なマニュアルという性質もある程度備えてはいますが、それよりも、ウィキペディアがめざす方向性、言い換えれば一種の主張・思想を打ち出しているのではないかと感じるのです。私が「主義」という言葉を使ったのは、この認識からでした。
ところで、「中立的な観点」というのが、よく誤解されるような、「足して二で割る」ような立場でないのと同様、この方針もただ「出典を示せばいい」ということではない、と思います。情報のソースを示す、あるいはそのソースが確かで信頼できるかということももちろん重要ではありますが、信頼できる出典が明示されても、もしその内容が曲げられていたり、無関係のものだったりしたら、どうでしょうか。出典が示されない記事は、理想的とはいえませんが、必ず除去しなければならないとは限りません。しかし、虚偽の出典や内容の歪曲は、ウィキペディアに対するより重大で挑戦的な行為だと思います。この点は、今後ますます重要性を帯びてくるような気がします。
以上から、この方針で第一義的に強調すべきは「中立的な観点」同様に執筆姿勢そのものであり、典拠に基づいてその趣旨の範囲内で誠実に書く、ということではないかと思います(ここで「出典」としないのは、すでに指摘があったと思いますが、「引用」や「転記」との混同を避けたいためです)。同時に、すでに触れたように、この点が並び立つ「中立的な観点」の方針に通じると考えます。方針文案に「すなわち、ウィキペディアの内容は、典拠を示すことができ、かつ中立的な観点から書かれていなければなりません。この二つの方針は相互に補完しあうものであり、ばらばらに切り離して解釈すべきではありません。」とあるあたりが、とくに留意したいと考える箇所です。
意を尽くせたかどうかわかりませんが、この方針でなにを強調すべきかということが議論の核心になっていると読みましたので、これである程度明確にできたらよいと思います。私としては、この中心部分さえ押さえられれば、細部は後でも修正できることですし、あまり議論に時間をかけない方がよいと思っています。いずれにせよ、みなさんの合意が図られることを願います。--みっち 2007年3月16日 (金) 07:40 (UTC)[返信]
2007年3月14日 (水) 15:11の磯多申紋さんと2007年3月16日 (金) 14:53のAotakeさんのコメント内容をみて、自分の記述を反省しました。わたしは独自研究も情報源の質と考えていましたが、明確に情報源がないものについて、とくにA+B=Cの例については独自研究の意味をきちんと含める必要があるんだなということです。
『信頼できる公表された情報源(情報源の質)+それをもってしても独自研究になっていない』ということが必要なのかと思いいたりました。みなさま、ありがとうございます。その点では、『よりどころ』という言葉があります。これは、Ks aka 98さん、Isorhizaさん、Y tambeさん、miyaさんがつかわれている『根拠』に近いと思います。また『典拠』も「よりどころ」が含まれていますが、いままでわたしが記してきたように一般的な言葉ではなく、『二大方針』のための用語として、より一般的な用語を用いるほうが適切と思えます。
根拠について提案されている皆さんの記述は、その意味で的確ではないかと思うのですが、
1. 記述の根拠を提示する(Ks aka 98@ノート:独自の調査)
4. 根拠(Isorhiza@ノート:独自の調査)
5. 根拠を示す(Y tambe@ノート:独自の調査)
10. 情報の根拠(miya@ノート:独自の調査)
1の「記述の根拠を提示す」、5の「根拠を示す」は、提示する、示すが不要なのではと思います。4と10は、情報があるかないかですが、記述内容、記述、などの当てはめが可能だとおもいます。そこで、『根拠』系で、新たに、『記述の根拠』を提案させてください。また、『記述のよりどころ』、また別の表現で『記述の裏付け』という表現も提案いたします。
また別途、投票の仕方について、下で提案いたしますのでよろしくお願い申し上げます。--Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 19:58 (UTC)[返信]
上のほうの議論を読ませていただきました。なんだか私の意見が実に稚拙に思えてきたわけですが、もう少しだけ言わせてください。
みっちさんのおっしゃる「執筆姿勢」ですが、実にそのとおりだと感じます。これまでは「検証可能性」あるいは「出典を明記」と「中立的な観点」は別のものとして考えられてきましたが、ここに来て統合の見込みになってきたのは大変好ましいことだと思います。少し私論になるので、反論等ある方もいらっしゃるとは思うのですが、なんかの参考になればと思って書かせていただきます。
このような規定がなぜ設けられているのか、ということについて考察してみました。個人的には、みっちさんがすでにおっしゃっていることですが、Wikipedia執筆者としての姿勢を提起しているものではないかと考えました。上の3つ(まもなく2つになろうとしていますが)は相互に関連しているものであってばらばらに考えるべき性質のものではないと思います。理想的な意味での「目標」は「中立的な観点」にのっとってすべての記事が書かれることですが、(「客観的な人間」というものは存在しないので)「何が中立的であるか」というのは一人間がそう主張するのみでは不十分であり、その代替といったらいいすぎですが、(「主観的な人間」でもその是非を判断可能な)「出典を明記」したり「検証可能であること」を求めたりするのではないでしょうか。たとえばある記事において、AとBとのいずれを記載するかが対立していて、ここでAとB両方ともそれを裏付けるものがないと編集合戦に陥ります。しかしAを裏付ける出典が多数ある一方でBを裏付けるものが十分に少なければ、Aを一般説として大きく取り扱っても「中立的である」という評価になります。このように「(ある事象について述べる場合に)出典が存在していてそれを示せる(≒出典をチェックできる=検証可能であること)」は、中立であるといいうるための必要条件だと思います。逆に、出典が示されていれば「中立的でない」との謗りを受ける可能性はずっと小さくなります。
その意味で今回の英語版のAttributionの導入は、この原理の根本に沿った形のものであるとみなすことが出来ます。"attributable"=「出典を示すことが可能であること」はまさに上の理論の必要条件を満たせ、と各記事に要請しているわけです。
以上の意見は現在のWikipediaから見れば大変異端のものでして、この編集者はけしからんと思った方もいらっしゃるかもしれませんがそうであったなら申し訳ありません。またWikipediaの創始者に聞けばすむような気もしますから、わざわざ考察する余地はないはずなのですが、規定を読む限りでは私には以上のように感じられました。まったくの「独自研究」でありますがご容赦ください(ちなみに以上の主張に類することをWikipedia‐ノート:検証可能性でも述べました。説明が十分でなく理解していただけなかったようですが)。
さて本題のほうですが、やはり私は「典拠主義」を推します。以上の考察によってこれはWikipediaの「主義」だとみなすに至ったためです。ですがこれでは意味不明という方もいるでしょうし、わかりにくい可能性もあるので「典拠に基づく」を本文中に併記することを希望します。他の説に特に反対はいたしませんが、2つほど懸念することを挙げます。
  • Pararinpooh氏とは対立する形になってしまうのですが、「典拠」の語を用いるべきだと思います。字面どおり「出典」+「根拠」というのは幼稚かもしれませんが、「出典のあるものを根拠とする」ことはやはり「典拠」という漢語で表すのがよいのではないかと思います。「根拠」も考えはしたのですが、「独自研究」にも「根拠」は存在し、「根拠を持つ」などとすると「独自研究」を容認する編集者がでてくる可能性があります。その意味で「根拠」の意味は少し広すぎるのではないかと考える次第です。
  • 下で投票のカテゴライズがされていますが、下の分類とは別に「『明記する・示す』と書くか否か」という分類を提案します。英語版ではattributableであればよく、示せることは必要条件ですが、示すことは必ずしもそうでないと考えています。その意味では「明記する・示す」は不要であるというのが私の意見です。これもかなり重要なことだと思いますし、ちょうど半分ずつくらいにもなりますので、これの是非について投票をしてもいいかな、とも思いました。
以上長々と失礼いたしました。他の方のコメントもお待ちしております。--Ich57 2007年3月20日 (火) 22:26 (UTC)[返信]
Wikipedia:Attribution/FAQの翻訳をしていて、今さらながら、sourcesは多くの場合「情報源」よりも「資料」と訳した方がしっくりくることに気付きました。資料はウィキペディア内に記事もあります(情報源もありますが)。とはいえ、この編集には異論のある方もいるかもしれませんので、ご意見や、本文への加筆修正、よろしくお願いします。また、まだFAQの方は半分くらいしか翻訳できていませんので、ご関心のある向きには、翻訳、推敲にご協力いただければと幸いです。--Aotake 2007年3月25日 (日) 02:40 (UTC)[返信]

方針名案[編集]

やはりなかなかまとまらないので、今までに出ている方針案を五十音順に列挙してみます。

  1. 記述の根拠を提示する(Ks aka 98@ノート:独自の調査)
  2. 記述の典拠(miya@ノート:独自の調査)
  3. 公表された信頼できる情報源の明示(Pararinpooh) 消す --Pararinpooh 2007年3月16日 (金) 02:11 (UTC)[返信]
  4. 根拠(Isorhiza@ノート:独自の調査)
  5. 根拠を示す(Y tambe@ノート:独自の調査)
  6. 出典(又は典拠)を明記する(Dwy)
  7. 情報源の質(Pararinpooh) 消す --Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC)[返信]
  8. 情報源の表示(Pararinpooh) 消す --Pararinpooh 2007年3月16日 (金) 02:11 (UTC)[返信]
  9. 情報源の明示(Pararinpooh) 消す --Pararinpooh 2007年3月16日 (金) 02:11 (UTC)[返信]
  10. 情報の根拠(miya@ノート:独自の調査)
  11. 情報の信頼性(spirituelle@ノート:独自の調査)
  12. 信頼ある公表された情報源(Pararinpooh) 修正 --Pararinpooh 2007年3月16日 (金) 02:11 (UTC) 消す--Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC)[返信]
  13. 信頼できる情報源の明示(Pararinpooh) 消す --Pararinpooh 2007年3月16日 (金) 02:11 (UTC)[返信]
  14. 典拠(Isorhiza@ノート:独自の調査)
  15. 典拠主義(みっち)
  16. 典拠性(みっち) 消す --みっち 2007年3月16日 (金) 07:49 (UTC)[返信]
  17. 典拠が必要(Hatukanezumi) 消す --Hatukanezumi 2007年3月15日 (木) 08:58 (UTC)[返信]
  18. 典拠に基づく(みっち)
  19. 典拠を示す(読者(編集する利用者)が主語になる、言い切りの表現として・Hatukanezumi)
  20. 発言者・作者を特定する(58.95.141.91@ノート:独自の調査)
  21. 記述のよりどころ(Pararinpooh)追加 --Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC)[返信]
  22. 記述の根拠(Pararinpooh)追加 --Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC)[返信]
  23. 記述の裏付け(Pararinpooh)追加 --Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC)[返信]

あまり議論が長引くのもよくありませんので、もし合意形成が難しそうならば、議論をご覧になっている方が多いうちに投票をしてしまうのがいいかなと思います。ひとまず、このリストを見ながら、足したり消したりしていただいて、候補を少し絞り込めればと思いますので、ご協力お願いします。なお、消す際は<s></s>で挟んで取り消し線を引く形で消してくだされば、話が見えやすくてよいと思います。--Aotake 2007年3月15日 (木) 07:50 (UTC)[返信]

みなさまご協力ありがとうございます。しばらく動きがないようですので、そろそろ上に残った案に対して投票をしてみてはと思います。本来ならば、投票をしないのが「ウィキペディアらしい」スタイルなのかもしれませんが、上の議論を見ていますと、それぞれのキーワードとなる言葉を推す方と反対する方の間で、説得によって合意に至るのにはかなり時間がかかるか、困難なように思います。投票結果を即方針名として決定することには、反対があるかもしれませんが、投票によって、多くの方の印象を調査し、合意形成に前進できれば、よいと思います。投票の詳細は、下の節に記します。もし、投票に反対される方がいらっしゃいましたら、投票開始前に、なるべく早くご意見ください。ただし、その場合、その方には、方針名が決定するまで責任を持って議論にご参加いただくことを願います。また投票の詳細について、不適当な点があれば、この直下にご意見ください。--Aotake 2007年3月20日 (火) 13:32 (UTC)[返信]
みなさま、新たに、『 記述のよりどころ』、『記述の根拠』、『記述の裏付け』にさせていただきました。理解不足からゆらいでしまい大変申し訳ありません。
さて、投票についてですが、2段階の投票をお願いしたく思います。ベースとなる考え方のどれをとるかで、『根拠』、『典拠』、『信頼性』、『特定』などキーワードが分かれるので、まずは、それぞれのキーワードについての投票がよろしいとおもいます。キーワードが特定できたら、その具体的な表現について、たとえば『記述の根拠を提示する』なのか『根拠』なのか、もしくは、『情報』なのか『記述』なのかを投票されるほうが、意見の集約として適切ではないかなと思うものです。
Aotakeさんがおっしゃっているように、『投票によって、多くの方の印象を調査し、合意形成に前進』するためということであれば、投票によるアンケートということになるので、その際は、それぞれ個別に投票いただき、グループごとに集計するというのも一つのやり方かとは思いますが、私は段階を踏んでの方がよろしいのではないだろうかと思います。下に、グルーピングしてみました。
  • 根拠
  1. 記述の根拠を提示する(Ks aka 98@ノート:独自の調査)
  2. 根拠(Isorhiza@ノート:独自の調査)
  3. 根拠を示す(Y tambe@ノート:独自の調査)
  4. 情報の根拠(miya@ノート:独自の調査)
  5. 記述の根拠(--Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC)[返信]
  • 信頼性
  1. 情報の信頼性(spirituelle@ノート:独自の調査)
  • 典拠
  1. 記述の典拠(miya@ノート:独自の調査)
  2. 典拠(Isorhiza@ノート:独自の調査)
  3. 典拠主義(みっち)
  4. 典拠に基づく(みっち)
  5. 典拠を示す(読者(編集する利用者)が主語になる、言い切りの表現として・Hatukanezumi)
  • 発言者・作者を特定
  1. 発言者・作者を特定する(58.95.141.91@ノート:独自の調査)
  • 出典(又は典拠)を明記
  1. 出典(又は典拠)を明記する(Dwy)
  • 裏付け
  1. 記述の裏付け(--Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC))[返信]
  • よりどころ
  1. 記述のよりどころ(--Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC))[返信]

以上--Pararinpooh 2007年3月20日 (火) 20:15 (UTC)[返信]

んー。現時点での投票は「参考とするために」行われるものですので、あまり厳密な判定を求めないほうがいいようにおもいます。「独自の研究」と「独自の調査」みたいに、いまだに揺れているものもありますし。ただ、呼称がさしあたり確定していないと方針として扱いづらいので、いったんは決めよう、ということだと理解しています。
投票者数が十分に多ければ、Pararinpoohさんのおっしゃる「ベースとなる考え方」のどれに支持があつまるかも、自然とあきらかになるのではないでしょうか。--Hatukanezumi 2007年3月21日 (水) 01:17 (UTC)[返信]
Hatukanezumiさん、コメントありがとうございます。『投票成立の要件』に書いてある『各案の得票を最終的な方針名決定の合意形成の判断材料とする。』のことですね。なるほど。ところで『投票成立の要件』と『各案の得票を最終的な方針名決定の合意形成の判断材料とする。』がわたしには結びつかないのですが『投票成立の要件』とはなにを意味しているのでしょうか。『投票成立の要件』とはわたしの理解では、投票成立するために必要な条件ということで、つまり、『投票が成立する条件』ということでたとえば『最低投票率』とかが記されることになると思います。『各案の得票を最終的な方針名決定の合意形成の判断材料とする。』というところのタイトルは、『投票の目的』とかになると思います。また、これを記述する場所は、主題のすぐ下のほうが適切です。修正させていただきます。--Pararinpooh 2007年3月21日 (水) 06:47 (UTC)[返信]
投票成立の要件については、Pararinpoohさんが正しいと思います。言葉遣いがおかしいと思いながら、先例をまねしただけですので変えていただいてよいとおもいます。投票の段階を分けるべきとのご意見にも、一理あるとは思いますし、慎重にひとつずつ進めるべきだという態度は素晴らしいと思いますが、他の方も幾人かおしゃっておられるように、あまり議論を長引かせたくないということもありますし、投票をしますと投票の間は少なくとも議論が確定しないという面もあるわけで、できれば少ない回数にしたいと思っています。投票結果を即、方針名の決定としなかったのは、ウィキペディアの投票の指針に従っています。投票結果が明白であることをもって、少数派が納得して合意形成できればいちばん話が簡単だと思いますが、納得できない場合もあるかもしれませんし、明白な結果が出なければ、より少ない選択肢を対象にもう一度投票を行う必要性が出てくる可能性もあるかもしれません。--Aotake 2007年3月21日 (水) 07:03 (UTC)[返信]
Aotakeさん、ありがとうございます。いえ、わたしが『各案の得票を最終的な方針名決定の合意形成の判断材料とする。』をきちんと読んでいなかったためです、すみませんでした。この点は的確だなあとHatukanezumiさんにコメントいただいた時点で納得了解しています。こちらこそ提案自体がふらつきましてご迷惑をおかけしております。よろしくお願いします。--Pararinpooh 2007年3月21日 (水) 11:28 (UTC)[返信]

方針名についての投票[編集]

投票の概要[編集]

  • 投票の主題
    • ウィキペディアの編集方針となる、Wikipedia:Attributionの日本語版における方針名。
  • 投票の目的
    • 各案の得票を最終的な方針名決定の合意形成の判断材料とするため。
  • 投票場所
    • Wikipedia‐ノート:Attribution#方針名についての投票
  • 投票に先立つ議論
  • 投票者に必要な資格
    • 2007年3月19日 (月) 00:00 (UTC) 時点で編集回数50回以上のログインユーザ
  • 投票期間
    • 2007年3月28日 (水) 00:00 (UTC) - 2007年4月4日 (水) 00:00 (UTC) の一週間
      • 投票は終了しました
  • 補則
    • 利用者1人につき3票(1案につき1人1票)まで複数投票可。期間中ならば、賛成する案の変更が可能で、投票終了時点で投票していたものを最終的な投票とみなす。
  • 選択肢
    • 選択肢は以下の通り。(投票開始までは動く可能性があります)
    1. 記述の裏付け
    2. 記述の根拠
    3. 記述の根拠を提示する
    4. 記述の典拠
    5. 記述のよりどころ
    6. 根拠
    7. 根拠を示す
    8. 出典を明記する
    9. 情報の根拠
    10. 情報の信頼性
    11. 典拠
    12. 典拠主義
    13. 典拠に基づく
    14. 典拠を示す
    15. 典拠を明記する
    16. 発言者・作者を特定する

投票欄[編集]

賛成する案の節に、時刻入りの署名を加えてください。コメントは別欄にお願いします。

投票は終了しました

記述の裏付け[編集]

記述の根拠[編集]

記述の根拠を提示する[編集]

記述の典拠[編集]

記述のよりどころ[編集]

根拠[編集]

根拠を示す[編集]

出典を明記する[編集]

情報の根拠[編集]

情報の信頼性[編集]

典拠[編集]

*Ich57 2007年3月28日 (水) 09:52 (UTC)賛成する案を変更しました--Ich57 2007年4月3日 (火) 14:15 (UTC)[返信]

典拠主義[編集]

典拠に基づく[編集]

典拠を示す[編集]

典拠を明記する[編集]

発言者・作者を特定する[編集]

無効票[編集]

コメント[編集]

  • 投票させていただきました。投票理由は上にも詳述しましたが、信頼性の高い情報源であるところの「典拠」が「示せる」ことがこの指針の必要十分条件だと考えるためです。あとは語の調子を考えて名詞中心の「典拠」「典拠主義」と日本語Wikipedia方式の口語体:「典拠に基づく」を選びました。(数日間出かけますのでこちらにもしばらくは参加できませんがお許しください。)--Ich57 2007年3月28日 (水) 09:56 (UTC)[返信]
  • こまかいことをいいます。みっちさんの案、「典拠に基づく」ですが、この語には意味の重複があるのではないか、という疑問があります。「典拠」は「よりどころ」という意味、で、「基づく」には、元から「基」という語がはいっていて、これがすでに「よりどころ」という意味になっていないか、どうでしょうか。なにか、「典拠に基づく」という語は日本語としてあやしいなあ、というのが印象です。--じゆにち 2007年3月29日 (木) 10:11 (UTC)[返信]
  • 「検証可能性」という語がしばしば「記述された事実の証拠を示せる」という意味に理解されてきたようにおもいます。ですが、「こういう文献に書いてあった。だからこれは事実だと言えるから書いた」というのであれば、ある事実の真実性を仮定して記述をしていることになりますから、独自研究になるのではないでしょうか。そうではなく、WP:Vやこの方針は「執筆者は、記述することが事実だと証明する義務はないが、適切な典拠を示す義務がある」ということだとおもいます。
    そういうわけで、「根拠」「よりどころ」「裏付け」といった語を含むもの以外から選ぶことにしました。1票めは自分で提案した選択肢です。2票めは、「典拠」を「出典」と言い替えたい場合もあるのでそのようなものにしました。3票めを行使するかどうかは、もうすこし考えます。--Hatukanezumi 2007年3月29日 (木) 13:24 (UTC)[返信]
  • 壽日さんのご指摘についてですが、「よりどころ」という意味を含む点では、「典拠」に限らず「出典」も「根拠」も同様なので、これらに「基づく」という表現は、仰せのとおり重複のきらいがあるかもしれません。ただ、「典拠」だけでは「(よりどころとなる)文献」としての意味が強いため、方針名としてはそぐわないように感じます。「したがう」、「沿う」、「準じる」も考えましたが、どうもしっくりしません。候補から消しましたが、「典拠性」もあったかな? もし「典拠」が用語として支持を得られるのであれば、この辺はもう少し練ってみたいと思います。--みっち 2007年3月30日 (金) 01:15 (UTC)[返信]
  • 「典拠に基づく」については「頭痛が痛い」ほどの違和感は感じませんでした。「よりどころとする」「もとづく」は等価ではないような気がします。--スのG 2007年3月30日 (金) 14:09 (UTC)[返信]
  • 正直、これでなくては、というまでの強い嗜好はないので、まず1点だけ投票させていただきました。「典拠に基づく」に対してご指摘あった意味の重複については面白い点だと思いましたが、「骨を骨折した」などというように、意義がなく回避容易な意味重複の典型例とも違って、大きく問題とするほどではないかな、というのが私の印象です。例えば「根拠に基づく」であれば私は違和感を感じないので、仮に違和感があるとすれば、「典拠」という言葉の比較的マイナーさゆえと、「(典拠を)示す」という定型句との親和性の高さゆえかな、と推測しています。--磯多申紋 2007年3月30日 (金) 14:11 (UTC)[返信]
  • ううん、「典拠」は既に基づいているものではないのですか、だから、「典拠に基づく」は、基づいているものに基づいている、という奇妙なことばになっている気がします(これでも説得は無理かな……)。--じゆにち 2007年3月30日 (金) 14:19 (UTC)[返信]
  • 「記述の根拠を提示する」は、自分で出した案ですが、この方針は、検証可能性・出典の明記だけではなく、独自研究を含むことを考えると、「記述」という語が欲しいと思うこと、「出典」は紙を想起させるという意見が独自研究の訳語の議論であって、その意見には首肯できること、根拠があるから書いていると言いつつ具体的な資料を示さない例が散見されること、といったところが、多少くどくなっても、それぞれの語を方針名に含める必要を感じる理由です。「典拠主義」については、「典拠主義」では…という用法であれば違和感がないのですが、「ウィキペディアは典拠主義」みたいな使われ方が広まることをちょっと懸念します(やや反対)。「典拠」だと「示す」と続けたいという感覚はぼくにもあります。基本的に「基づく」よりは「示す」ことを求めたいと思うのですが、「情報の根拠」は語感が何故かしっくり来る感じがします(根拠の希薄な賛成票)。--Ks aka 98 2007年3月30日 (金) 20:06 (UTC)[返信]
  • 上のかたがたのコメントを拝見させていただきました。何点かもう少し議論の深まりそうなものがあったので、突っかかりに見えるかもしれませんがご堪忍ください。
  • 壽日さんの「典拠に基づく」が日本語として不自然である、との指摘は確かにおっしゃるとおりかもしれません。「馬から落馬する」(=馬以外から落馬することはできない)、「骨が骨折する」(=骨以外が骨折することはできない)、「頭痛が痛い」(=頭以外は頭痛にならない)などの場合は、完全に一方が他方の意味を内包しています。
けれども、「(名詞)を使って(動詞)する」は一般的な支持を得られているように感じます。たとえば「歌を歌う」、「本を読む」(←本を読み物と言い換えればより適切な例になるでしょう)は一般的に多く使われているはずです。「典拠に基づく」も、「典拠」が「記述のよりどころとなる文献」を示す名詞として解されるゆえ、この類のものとして一般に使用されるものではないでしょうか。
  • HatukanezumiさんやKs aka 98さんの意見について、少し細かいことですが、英語版原典を引きますと"This page in a nutshell: All material in Wikipedia must be attributable to a reliable, published source."(逐語訳:このページを要約すると:すべてのWikipedia内の素材は信用できる、出版されたsourceにattributableでなければなりません →sourceとattributable/attributionの訳語は現在ここで議論されている問題なので英単語のままにしてあります)とあります。"attributable"は「attributeできる」の意味ですから、このページの根幹、あるいは主目的は「示す」ではなく「基づく」であるということになります。もちろん、その目的達成の評価方法として「示す」方がよりfairなのは明らかなので、説明文中に書くのは結構なことだと思うのですが、方針名は方針の主内容=「基づく」を採用するべきだと思いますが、どのようにお考えになりますか。
以上、これ以降の議論の足しになればと思い書いてみました。皆様のご意見を誤って酌んでしまっているなどの場合は、ご容赦ください。--Ich57 2007年3月31日 (土) 01:05 (UTC)[返信]
  • 上に書いた理由から、「基づく」という語を含むものを自分の選択肢から除外しています。
    また、「示す」ですが、英文の「All material in Wikipedia must be...」のように無生物を主語(主題)にするというのはあまり日本語的でないように感じますので、主語を置き換えて執筆者の行動規範として表現しています。またこうしたほうが、日本語版で「きまり」に対しておおくのひとがとる姿勢(良し悪しは別にして)とも整合的であるようにおもいます。
    ひとつの考えかたとして、判断の参考になれば。--Hatukanezumi 2007年3月31日 (土) 02:13 (UTC)[返信]
  • 私の考えを押し付ける気はありませんが、知っていただけたらと思い、書きます。ガイドラインは記事を主語にして書くのが適当と思います。Wikipediaの規則は記事が満たすべき要件を規定するものであって、それ以上でも以下でもないし、ましてWikipediaの規則に行動を制限される理由はありません。ルールは人間が活用するためにあるのであって、自由なWikipediaにあって、人間を縛り付けるものではない、とも思います。また、Attributionの解説内容は「示せる」ことのみが記事成立の必要十分条件であり、「示す」と日本語版だけが勝手に範囲を狭めるのは恣意的なのではないか、というふうに思います。これもまた、ひとつの考え方なので、上のものとセットで読んでいただければと思います。--Ich57 2007年3月31日 (土) 08:02 (UTC)[返信]
  • 「基づく」の弱さは、「何らかの根拠・出典に基づいて記事は作成した、しかしその根拠・出典を明示することはしなかった」というケースを防ぎきれないところにあるのではないでしょうか。なので「基づく」よりも「示す」「明記する」が好ましいと考えます。もちろんガイドラインの本文には詳細記述されていることでしょうけれども、ガイドライン名そのものから想定できるほうがよいと考え、個人的には「典拠を示す」が日本語的にしっくりくるものとして、該当項目に投票しました。(議論に参加せず投票時になっての発言で申し訳ありません)--田英 2007年4月1日 (日) 05:54 (UTC)[返信]
  • (コメント)いろいろと考えを整理していて出遅れました。まず、「明記する」という表現を標題に用いると、Attributionの下位ガイドラインにあたる、Wikipedia:出典を明記するとの混同のおそれがあるので、選択すべきではないと考えています。また「提示する」「示す」については、実際に記述中に「明記する」ことと、実際に出典に含めずともノートなどで主張することの、両方の意味に捉えることができる点で優れているとは思いますが、それゆえに一意性の点で劣り、前者として解釈された場合には、「明記する」と書いた場合と全く同じ問題を生じます。なので「示す」「明記する」など以外の表現が妥当だと考えました。
「示す」や「明記する」など、具体的な「手段」については、Attributionの下位レイヤーとしての「Wikipedia:出典を明記する」で規定されることとして、上位レイヤーとなるこちらでは、まず「目的」や「理念」について扱うべきだと考えています。「示す」「明記する」などの表記が採用された場合には、後に「Wikipedia:出典を明記すると統合すべきだ」という意見が出てくることも予想されますが、階層(包含関係)的にはあくまで「Attribution>検証可能性>出典を明記する」であるので、両者を統合すべきではありません。なので、最初から、そのような誤解を招かないような表現を用いるべきだと思います。「典拠を示す」などが採用された場合には、「出典を明記する」との違いと、それぞれの棲み分けについて明確にするための議論や、その結果によってはまた両者の名称変更のための議論が必要になる可能性もあるので、あとあと面倒くさいことになりそうだな、と予想してます。
典拠を示す」ことと「典拠を示せる」こととは別の事柄であり、ここで「理念」として重要なのは後者、つまり典拠を示せることを書くということだと。その前提のもとで、実際に「典拠を示す」かどうかについては、下位レイヤーの運用レベルでの取り決めという形にした方がいいだろう、と思ってます。例えば(例外の例に挙げられる)「アップルパイについて」や「空が青い」などのような一般的記述に出典を示「さ」なかった場合、それは下位レイヤーである「出典を明記する」に関する例外的措置ですが、出典を示「せ」る内容なので、上位レイヤーのAttributionについての例外にはあたりません。もちろん、Ignore All Ruleとの関係上、Attributionにも何らかの例外を許容しなければならないかもしれませんが、「例外を主張して、ルールの網の目を広げ、好き勝手に記述」しようとする人を抑止、牽制するためにも、上位にいけばいくほど、そういった例外が少なくなるようにする(例外性の主張が高コストになる)方がいいと思います。
以上のような考えから、「典拠を示せることを書く」というのがいいかな……と思いましたが、選択肢の設定期間には遅れてしまいましたので、同じ理念に立脚した「典拠に基づく」に票を投じておきます。「典拠に基づく」については、表現上の問題が指摘されていますが、かと言って、上のような考えから「典拠を示す」では一意性の不備から代替にならないだろうと判断しました。--Y tambe 2007年4月3日 (火) 02:54 (UTC)[返信]
  • 「記述の根拠を提示する」に一票投じさせていただきました。詳細に渡る議論も多数あり非常に興味深いのですが、私はこの問題に関してはまことに単純ながら「わかりやすさ」を重視して決定しました。多人数で共有される方針であり、また百科事典の信頼性を担保するための必要となってくる基本スタンスでもありますが、それでもおそらくほとんどのウィキペディアユーザーはこの文章を全て読むことはないでしょう(これは残念なことですが。こんなに長いのです、仕方がないでしょう)。であれば「これは一体何のルールなのか」「そして私に一体どうしろと言っているのか」それをすぐ理解できるようなタイトルが実効的だろうと考えました。以上のような経緯で上の案に一票投じさせていただきました。Was a bee 2007年4月3日 (火) 04:16 (UTC)[返信]
  • この方針が意味するところは「出典を明記せよ」でも「根拠を明記せよ」でもなく「信頼できる情報源に基づいて書け、それ以外は書くな」ということでしょう。出典を明記することは大切なことですし、強く推奨されるべきと思いますが、この方針の名前をそれにしてしまうと、意味がずれてしまうのではないでしょうか。 --Kanjy 2007年4月3日 (火) 13:26 (UTC)[返信]
  • 方針名ひとつ見ただけで内容が把握できたほうがよい、という意見をみて確かにその通りだと感じたので、「典拠」を修飾語つきの「記述の典拠」に変更しました。なお私の上の文章がわかりにくかったので補足しようかと考えていましたが、Y tambeさんが同じような考えを書いてくださったので。それに近い感じで「示す」ではなく「示せる」の内容のものを選んでいます。--Ich57 2007年4月3日 (火) 14:24 (UTC)[返信]

投票の結果とこれから[編集]

みなさま、投票へのご協力ありがとうございました。なによりも、たくさんのコメントが集まったことがとてもよかったと思います。いちおう集計結果ですが、

  1. 8票
    • 典拠に基づく
  2. 5票
    • 典拠を示す
  3. 4票
    • 記述の典拠
    • 典拠主義
  4. 2票
    • 記述の根拠を提示する
    • 出典を明記する
    • 情報の根拠
  5. 1票
    • 典拠を明記する

となりました。無効票はないと思いますが、集計結果ならびに票の有効を念のためご確認いただければと思います。

さて、この結果を踏まえつつ、今後どうするかということになります。みなさまのコメントで上げられた論点について、一部投票前から出ているものと重なりますが、確認したいと思います。(抜けているもの、誤って要約しているものがありましたら修正願います。)

  1. 「示せる内容を書く」か「示す」か
    1. 典拠に「基づく」、典拠を「示せなければならない」という趣旨なので、「示す」等の「表示義務」を想起させる名前はよくない
      1. 「示さなくてもよい例外」があることを踏まえ、上位レベルの方針となるAttributionには例外がなるべく少なくなるよう、「示す」は避けるべき
    2. 根拠があると言いつつ資料を示さない例が多いので「示す」の語を用いるのがよい
    3. 「明記する」には、Wikipedia:出典を明記するとの混同のおそれがある
  2. 「典拠に基づく」の意味の重複
    1. 典拠と基づくには意味の重複がある
    2. 気にするほどではない
  3. 「事実の根拠」と「典拠」の分別
    1. 「根拠」「よりどころ」「裏付け」などは具体的資料ではなく「事実の根拠」が示せればよいとの誤解を生みかねない
  4. 一体何のルールなのか、すぐわかるタイトルがよい
  5. 「記述」という語が欲しい
  6. 「出典」は紙を想起させるという意見が独自研究の訳語の議論であった
  7. 「ウィキペディアは典拠主義」という使われ方は避けたい

この中でも、意見が二分している「示せる内容を書く」という趣旨のタイトルにするのか、「示す」という趣旨のタイトルにするのかというところが一番難しいところだと思いますので、ここから議論を詰めたいと思います。まず、いずれの御意見の方も、本方針の趣旨そのものは「典拠のある内容しか書いてはいけない」ということであることは御理解いただけているとして議論を進めたいと思います。ここについて異論のある方は、Wikipedia:出典を明記するをどうするかということを含めて、本方針を反故にして新しく別の方針を立てる活動をしていただいたほうがよいと思います。

その上で、「示す」系の題を推す方の主張としては、1)わかりやすさ、2)実状を鑑みて強制力が強くみえる方がいい、という理由があがっていると思います。1)については言い回しの問題で、本質的には「示す」か「示せる内容を書く」かとは無関係と思いますので、また後で議論しましょう。2つめの点についてですが、本文の内容、またFAQや他の方針との組み合わせによって、他者から疑われた場合や引用の場合は典拠提示が義務であるということを示すことは可能だと思うのですが、やはりタイトルの見せかけの強制力を強めた方がよいでしょうか。また、見せかけの強制力を強めることによって、典拠がないものを片端から削除する、といった新しい編集合戦が生じることもありえると思うのですが、これについてはいかがお考えでしょうか。以上、私自身が反「示す」派に立っているので、偏った意見とは思いますが、皆さんのご意見をお聞かせください。

なお、投票前にコメントされていたPararinpoohさんの「典拠という言葉を避けたい」という趣旨の御意見については、今回の意見投票では、特に問題となりませんでしたが、「典拠」という言葉を使ってよいかどうかについても、合意事項として確認したいと思いますので、異論のある方は下記にコメント下さい。(ご意見が長くなるようでしたら、節を分けていただければ幸いです。)--Aotake 2007年4月4日 (水) 11:22 (UTC)[返信]

Aotake様、集計ならびに丁寧な分析をありがとうございます。論点がすっきりして議論もはかどると思います。私も「『示せる』で十分か、『示す』か」が最大の論点だと思ったので、Aotake様のご提案にしたがって意見を表明します。かなり「『示せる』派」の立場で書きますので、「『示す』べきだ」という意見の方もコメントをよろしくお願いいたします。
まず以前から表明しているとおり、英語版に倣うと「示せる」です。このような重大方針は、各国語版共通であるべきだと考え、その点から「示せる」で十分だと思います。また、強く懸念しているのがこの規則をたてに、大量の削除を行うユーザーが出る可能性についてです。確かに典拠のないものは削除されてもやむを得ませんが、ある内容が「典拠のある情報」かどうかを巡って不毛な争いが展開されることは目に見えています。編集合戦を刺激するガイドラインを立てるのは何か本文に反している気がしてなりません。
もう一点は、「憲法と法律」のように、この方針は「主義」のようなものを定めて、細目は「出典を明記する」等に任せればよいと考えます。(そのため「典拠主義」を当初より推薦しています。)
さらに主語をどう立てるかですが、Wikipediaは百科事典であり、百科事典の命は記事であり、「記事とはかくあるべきだ」という内容を示すことこそガイドラインの役割だと思います。英語版で論争になっているのもVとNORをまとめるということに抵抗感のある人々が存在するためですが、Attributionはそれらを包括する、より抽象的な性格のものとして作られたものです。ですからある程度わかりにくくても、抽象的で構わないはずです。
以上、「示せる」派として思いつく限りの主張をしてみましたので、目障りな点もあるかとは存じますが、反対意見等、さまざまな論点が出てくるのを期待しております。--Ich57 2007年4月4日 (水) 12:18 (UTC)[返信]
集計と分析おつかれさまです。
「典拠を示す」を提案した者ですが、「記述」にあたる表現をいれたいという意見もありますので、「典拠を示せることを書く」なんかでもいいです。ちょっと語調が悪いかな。いずれにしても、執筆者が主語になるほうがいいとおもいます。
なお、Wikipedia:出典を明記するはガイドラインで、基本方針ではありませんので、むしろこちらのほうの語調を弱めることができるのなら、そうしたほうがいいようにおもいます。en:citing sources は「出典による傍証」といった意味だとおもうので、「明記」という訳が強すぎたのではないでしょうか (よりスタイルガイド的にするなら「出典の書きかた」とかでもいいようにおもいます)。ただ、いまからガイドラインの名称を変えるというのも混乱のもとかもしれませんから、強くは主張しません。
ちなみに、「典」という文字自体、台(机?)の上に竹簡を置いた様子で、「常に手許に置いて参照するもの、信頼のおけるもの」という意味あいがあるようです。漢語ではこういう畳語的な表現はわりとよくあるので、意味の重複はあまり気にしなくていいのではないでしょうか。--Hatukanezumi 2007年4月4日 (水) 12:23 (UTC)[返信]
集計、整理おつかれさまです。投票後多くの方のコメントを読ませていただき、大いに勉強させられました。様々なご意見があり、それぞれに考えさせらるものがありました。しかし今回その中でも特に、次の二つの発言に気持ちをひきつけられました(理由は後述します)。
ひとつはKanjyさんの投票中のコメント[1]です。
この方針が意味するところは「出典を明記せよ」でも「根拠を明記せよ」でもなく「信頼できる情報源に基づいて書け、それ以外は書くな」ということでしょう。(強調はwas a beeによる)
そしてもうひとつはAotakeさんの投票後のコメントです。
いずれの御意見の方も、本方針の趣旨そのものは「典拠のある内容しか書いてはいけない」ということであることは御理解いただけているとして議論を進めたいと思います。(強調はwas a beeによる)
思うにこの「出典がないことは書いてはいけない」という<否定的な部分>こそが、恐らくあまり多くの人に知られていないにも関わらず、最も重要な所であり、いわば当方針の骨子に当たる部分なのではないでしょうか。自分自身の過去を振り返ってみても、初めてウィキペディアの出典関連の文章に目を通していたころに一番驚いたのは、やはりこの「出典がないことは<書かない>」という強いスタンスだったように思います。もはや投票後のことではあるのですが、この点(「出典がないなら書かない」)という情報がタイトルから読み取れるような形が何かないだろうか、という思いに駆られています。以上投票の後の話ではあるのですが、「書くな」という部分をより強調しておくべきではないだろうか、という思いからコメントを投じさせていただきました。--Was a bee 2007年4月7日 (土) 00:55 (UTC)[返信]
こんにちは。投票には参加しませんでした。Aotakeさんはじめ皆さんの継続的な努力には頭が下がります。いつも言うだけ言って申し訳ないです。「出典」があることが広く知れ渡るのはいいことだとおもいます。ただそうなってくると今後は「出典」という言葉がなんなのかの定義の具体的な解釈で衝突が起こるのかもしれません。信頼ある情報源というか「信頼ある資料」というか、それは、具体的には各記事によって決まるものになると思います。米国での議論でも各論では相対的な意見のようで信頼ある(と私に思えた)論客が「xxというテレビ番組はyyよりは信頼性あるものだ」という比較で論じているものも目にしました。なにが「出典」でなにが「出典」ではないのかは絶対的なものではないので、その点での議論がはじまるのかなあと思っています。具体的なものとはたぶん「なになら’信頼性’ある情報源」なのかをそのテーマ毎あるいは記事毎に決定できる「プロセス」のことなのかなと漠とおもっています。でもまずは何を元にしたのかを論じ合える原点としてともかくもなにかよりどころとなる出典がいるぞということが共通認識になることは一つ重要な点ですよね。そのためにはWas a beeさんおっしゃるようにその点を広く知らしめることは必要ですよね。また勝手なこと申し上げて恐縮です。--Pararinpooh 2007年4月7日 (土) 04:56 (UTC)[返信]

まず投票の取り仕切り、まとめなど、大変お世話様でした。個人的には、選択肢の中のどれになっても実質的な問題はない範囲のぶれ、という以前の認識のままですので、割と安穏としているところです。ただ、正式方針となるべき方針で、「基づく」レベルにとどまらず、「示す」レベルにまで(タイトルで)踏み込むかは、ウィキペディアの根幹にも関わるように思います。「示す」タイプのタイトルにするのであれば、Wikipedia:出典を明記するのタイトルの変更も視野に入れて、二つの方針・ガイドラインの整合・主従関係が明確になるようにすることを考えるべきかとも思います。その点からすると、翻訳完了としての現在の項目のタイトル名としては、「基づく」レベルにしておくことが手続としては妥当かな、と思います。Pararinpoohさんのご意見はまたさらに一歩先の点ですし、英語版の動向を含めクリアしていく段階はいくつかありそうですが、まず本項のタイトルの問題をまとめてしまえれば、とも思います。--磯多申紋 2007年4月7日 (土) 14:57 (UTC)[返信]

みなさまあたたかいお言葉ありがとうございました。しばらく意見が付くのを待っていたのですが、「示す」派の方からはHatukanezumiさん、Was a beeさんの妥協案的なご意見以外、積極的なご意見がないようなので、ちょっとどうしようかなと思案中です。お寄せいただいたご意見を踏まえると、「典拠の示せることを書く」「典拠の示せることのみ書く」「典拠がなければ書いてはいけない」といった題なら多くの合意が得られそうでしょうか。やはり語感がちょっと座りが悪いですが、趣旨を明確にあわらすという意味ではいいかもしれません。一言メッセージでよいので、ご意見頂戴できればと思います。
Pararinpoohさんにも、丁寧なコメントありがとうございます。出典(典拠)の信頼性が文脈によって決定され、記事ごとに変わることは、方針の文中でもなんどか説明されているかと思います。とても大事な点ですよね。ただ、それについてはsourceやattributionにどんな訳語をあてても変わらないことではないでしょうか。それと、しつこいようで申し訳ありませんが、「典拠」の語を使うことについて特に触れられませんでしたが、この点についてはある程度納得いただいたということでよろしいでしょうか。
それにしても、泥沼になりつつある英語版の動向が見えず、時間がかかりそうなので、NORの公式化も再度とりくまないといけないかなと思いつつあります。こちらでの議論が還元されて、あまりもめずに公式化できればいいのですが、難しいでしょうか。みなさま、どうお考えになりますか。--Aotake 2007年4月15日 (日) 08:37 (UTC)[返信]

公表された情報を組み合わせた未公表な見解[編集]

例文の意味がよく飲み込めないので、自分なりに手を入れてみました。いいかどうかはわかりません。「シカゴマニュアル」が未訳ということもあり、この例文自体がわかりにくいですね。--みっち 2007年3月3日 (土) 05:24 (UTC)[返信]

そうですよね。シカゴマニュアルは米国ではいちばん著名なスタイルマニュアルではないかと思いますが、日本語人ではきいたこともない人がたくさんいると思いますし、まったく別の例に差し換えてしまってよいのではないかと思います。たぶん、そっと紛れ込んでいるようなものを例にしたくてこの例になっているんでしょうが、なにかいい例あるでしょうか。--Aotake 2007年3月3日 (土) 12:17 (UTC)[返信]
といっていたら、英語版でもちょうど「わかりにくい!」という意見が出ていますね。Wikipedia talk:Attribution (Revision as of 11:47, 3 March 2007 by Enchanter).どうなるでしょうね。--Aotake 2007年3月3日 (土) 12:23 (UTC)[返信]
この例自体がわかりにくいので前に1回NORのノートのログを掘ったことがあります。これは、実際にあった論争の素材を変えて作った例だったり。典拠が明らかなものと、典拠が明らかなもの二つを組み合わせるものであれば何でもいいと思うので、日本語版で独自に作りますか?--Ks aka 98 2007年3月9日 (金) 15:24 (UTC)[返信]
英語版では、わかりにくい、という意見に対して、SlimVirginさんが「わかりにくいのに意義があるんだ」みたいなことを言って、他の人が反発して、というところでとまっていますね(^^;) いずれにしても、日本語版においては、日本語圏でシカゴマニュアルになじみが少ない人が多いという事情もありますから、別の例を作ればよいかなと思います。といっても、なかなか分かりやすい例は難しいですよね。--Aotake 2007年3月10日 (土) 02:43 (UTC)[返信]

(インデント戻します。)日本語独自案を作るのに賛成です。この英語版での例のエッセンスを抽出しようとすると、意外と奥が深いような気がしてきました。出典ある事実を二つ並べた後で、まとめとして個人的な評価を付け加えて、という場合は、その部分を単に独自の調査と扱えばよく、ここで別途に問題とすべきこととも違うのかな、という気がしてきてます。ちょっと整理がついてないのですが。--磯多申紋 2007年3月10日 (土) 15:27 (UTC)[返信]

いくつか考えたのですが、例えば

  • A氏は120キロ離れてるXY間を先週1時間で車で移動した、と述べた(適切な情報源あり、と仮定)
  • XY間の道路の制限速度は最高でも100キロである(適切な情報源あり、と仮定)
  • A氏は先週速度違反を犯したことになる(組み合わせ)

というように、組み合わせ部分がそれなりに筋が通っている場合に意味があるルールということでしょうか。仮に組み合わせの部分が不合理な話であれば、その部分が単なる独自研究ということになるのかと思います。--磯多申紋 2007年3月14日 (水) 15:11 (UTC)[返信]

ありがとうございます。いただいた例は、これが誰にでも導ける簡単な計算式に基づく帰結と見なすかどうかによって判断が分かれるかもしれません。私もしばらくいい例がないか探していたのですが、ここのところの編集参加でちょうど出会ったのは、わりといい例ではないかと思うのですがいかがでしょうか。あんまり名前を伏せたことになっていませんが、一応名前を変えておきます。
  1. 松竹梅諸島で行われた世論調査において、竹島と梅島では、「松島は松竹梅諸島に悪影響を与えている」との回答が過半数を超えていた。(出典あり)
  2. 竹島と梅島では、歴史的経緯のため、松島に対して反対感情が根強い。(出典あり)
  3. 世論調査において竹島と梅島での松島への低い評価は、この反対感情が原因である。(出典なし)
ここで、世論調査での回答の理由は発表されていないにも拘らず、外の出典で示されている一般的な反対感情というものを持ち出して、この世論調査の結果に解釈を加えるのは、独自の見解となりますよね。つまり、「悪影響を与えている」という回答の理由は、現在の経済状況や、直近の外交問題など、歴史的経緯に基づく反対感情以外かもしれません。ここで、3つめの主張をするためには、この世論調査そのものに対して、そのような分析、評価をしている出典を持ってくる必要があります。英語版と同じくらいわかりにくいかも…--Aotake 2007年3月16日 (金) 14:53 (UTC)[返信]
そうですねぇ・・・誰もがわかるように書くのはなかなか難しいものですよね。ふさわしいかどうか多少疑問がありますが、わかりやすさを最大重視して、ひとつ出してみることにいたします。アメリカにおける「シカゴマニュアル」並みの知名度があるものとして、国内の音楽関係で誰もが知る「オリコンチャート」を例にしてみました。
  1. 某ロックバンドXは普段のテレビ出演はほとんどないが、シングル「A」を発売したときはテレビ露出が著しく増えた。(出典あり)
  2. ロックバンドXの出すCDはオリコンチャートで1位になることはなかったが、「A」はその週のチャートで2位に2倍の差をつけての1位になった。(出典あり)
  3. これは、積極的なテレビ出演のためである。(出典なし)
端的にいえば「独自解釈」になっています。「A」が1位になったのは、クチコミで評判が広がったものであるかもしれないし、あるいは純粋に楽曲の完成度が高いだけかもしれません。上の例と似ていて難なのですが、いかがでしょうか。--Ich57 2007年3月16日 (金) 21:16 (UTC)[返信]

私の例は、単純な算出の許容との兼ね合いがあるので、お二人の案のほうが妥当そうですね。ちょっと脱線なのかもしれませんが、お二人の例で因果関係を文に織り込んでしまうと、例えば、Aotakeさんの例で、

  • 「歴史的経緯から、竹島と梅島では、松島に対して反対感情が根強い(出典)。実際、竹島と梅島で行われた世論調査では「松島は松竹梅諸島に悪影響を与えている」との回答が過半数を超えている(出典)。」

とか、Ich57さんのものですと、

  • 「ロックバンドXは普段はテレビ出演を行わなかったが、シングル「A」の発売前後にテレビへの露出が著しく増えた(出典)。この結果、ロックバンドXの出すCDはめったにオリコンチャートで1位にならないにもかかわらず、その週には、シングル「A」が2位に2倍の差をつける1位になった(出典)。」

としてしまっても、やはりダメ、ということで合ってますでしょうか。--磯多申紋 2007年3月21日 (水) 20:40 (UTC)[返信]

返信が遅れました。申し訳ありません。私の案は磯多申紋さんの言い換えでまったく問題ありません。(Aotakeさんご本人の意見をうかがわないとわかりませんが、Aotakeさんの例はそのように言い換えると「実際」は因果関係を示しているとは限らないので事実を並列的に示して印象操作をしている可能性は濃いが規定上ギリギリセーフという気がします。)--Ich57 2007年3月28日 (水) 10:01 (UTC)[返信]
さらにお返事を遅らせていてすみません。確かに、私の出した例では「実際」とつなげた時にはぎりぎりセーフという見方もありそうですね。どこまでが「特定の観点を推し進めているか」というのは、それ自体が主観的な判断を含みますし…。その点、Ich57さんの出してくださった例は、多くの人になじみのあるテーマでもあり、いいかもしれません。みっちさんはじめ、他の方の印象も伺いたいです。--Aotake 2007年4月3日 (火) 03:30 (UTC)[返信]
ご指名受けました。例文の提案ありがとうございます。方針の理解度が足りないようで、正直言って判断が付きかねています。身近という点では、Ich57さんの例がわかりやすいと思います。ただ、積極的なテレビ出演とCD売り上げの相互関係は一般的に信じられていることで、独自の解釈だからいけないといわれると、うーん、どうなのかなあ、と悩んでしまうところがあります。一見、互いに関連がないかもしれない事柄に一致を見つけて、実はこれらは共通している、というような見解がいい、というか、「いけない」のかなと(^_^;)。Aotakeさんの「松竹梅諸島」の例でいくと、こんな感じです。
1) 松島と竹島は歴史的に敵対感情があり、島民同士の喧嘩などしばしば小競り合いがある。
2) 中立だった梅島で放火と見られる火事があり、火災発生現場付近の灰の中から竹島島民が好んで身につけている腕輪が発見された。犯人は特定されておらず、竹島は島民の関与を否定しているが、梅島は松島と合同で祭りを実施するなど、関係を深めている(ここまで事実)。
3) これは、実は竹島を孤立させるための松島の謀略である可能性がある。
例えが不適切で申し訳ありません。あと、例文は複数あってよいと思います。--みっち 2007年4月5日 (木) 03:48 (UTC)(補記)--みっち 2007年4月5日 (木) 03:57 (UTC)[返信]

第2節[編集]

えーと、まず私も例を挙げた上で、いくつかコメントを。

  • 「Aという食材にはBという成分が含まれている出典1。Bには、がん細胞を殺す作用がある出典2。したがって、Aを食べることはがんになるリスクを減少させる合成1。」
    この文章には問題になる記述が含まれています。問題点をより明確にするために、上の文に「続き」を付け加えてみます。
  • 「一方、AにはCという成分も含まれている出典3。Cには、発がん物質としての活性があることが知られている出典4。したがって、Aを食べることはがんになるリスクを増加させる合成2。」
    「Aを食べること」が「がんになるリスク」にどう影響するかは、上に挙げた出典を並べてみてもどれが正しいのかは判りません。しかし、きちんとした「正解」は存在するはずです…「リスク減少」かもしれないし、「リスク増加」かもしれないし、あるいは「リスクは変わらない」かもしれませんが。しかし、上に挙げた文章で導かれたそれぞれの結論(合成1、合成2)は、実際にそれが「正解」かどうかとは無関係に、出典を提示しない限り、書くべきではありません。逆に、例えば誰かが「(出典1と出典2から)Aを食べることはがんになるリスクを減少させる」ということを信頼できる情報源に書いているのならば、それが正解かどうかとは無関係に(仮にそれが将来間違いだと判明する運命だったとしても)、それを出典として、書くことができます。

それと、少し特殊なケースですが、「DHMOのジョークにおいてなされる説明の例として挙げられているもの」のいくつかを。

  • ご存知のように、DHMOの正体は「水」ですが、「DHMOは〜」という場合と「水は〜」という場合、それぞれの記述のコンテクストは異なります。ノート:DHMOで指摘している人もいますが、「水は〜という性質を持つ」「DHMOの正体は水である」ということから「DHMOは〜という性質を持つ」と記述したとすると、それは「100%正しい」内容ですが、ウィキペディア上で「新しく合成された」記述になります(例示されたものの中のいくつか、例えば「美浜発電所」の例などは、おそらくそういう例にあたるのではないかと)。ウィキペディアの外に「『DHMOは』〜という性質を持つ」と書いた一次情報源がない場合には、出典のある記述とは(厳密には)言えません。

私は『理科系の作文技術』(木下是雄、中公新書)を引き合いに出すことが多いのですが、本著では一章を設けて、「事実と意見を区別する」ことの重要性を説いています。ただ、一口に「意見」と言っても幅ひろく、そこには「推論」「判断」「確信」「理論」など、さまざまに分類していますが、いずれにせよ、事実と意見を明確に区別して書き分ける、ということが解説されてます。ウィキペディアにおいて、ある記述に「出典を明記する」ということは、その部分について、「〜、と(当該部の出典)に書かれている」という文章と同じ意味を持つ、ということだと。書き方が違うだけで。この「〜」の部分単独が、事実と意見のどちらであったにせよ、「〜、と(出典)に書かれている」という記述は、「意見」ではなく、「事実」にあたります(それが真か偽かの問題はありますが、ここらへんの説明しだすと長くなるので『理科系の作文技術』を参照して下さい)。要するに、出典を明記するということは「事実と意見を区別し、事実のみを書く」ということなんだと。これも「出典の示せない、一執筆者の『意見』(判断、推論)は書いちゃダメ」ということに尽きる話なんじゃないかな、と思ってみたり。まぁ、それが「正しい論理によって導き出された、根拠のある意見 sound opinion」か「根拠薄弱な意見 unsound opinion」か、というあたりに、一種の情状酌量の余地を認めるケースがあってもいいかな、と思わなくはないですが、原則としては「意見は書いちゃだめ」ということでも、十分なんじゃないかな、と。--Y tambe 2007年4月5日 (木) 11:15 (UTC)[返信]

Y tambeさんの二つの例(がんリスク、と、水・DHMO)が、一つの実務的なポイントを明らかにしてるように思います。「がんのリスク」例の「Aを食べることはがんになるリスクを減少させる」という合成1は実際に論理的にも早計な結論である場合で、一方、もう一つの「DHMO」の例での「DHMOは(水が持つ)性質を持つ」という合成は論理的には問題ない場合と思います。後者の合成は認めても構わないようにも思えますが、実際の議論では、前者に相当する早計な例なのか、後者に相当する論理的に問題ない例か、の見極めは、結局、実質の議論になって結構大変な気がします(検証可能性的な議論にならず、真実性の検討になりがちな気がします)。とすれば、後者の例であっても、直接、結論部分に出典がなければ認められない、という方向に行くのが妥当に思います(例外として認められる出典なし合成は、単純計算などで紛れが相当少ないケースに限定)。
Y tambeさんの意見・事実の区分については同感です。思ったのは、実務的な場合として、恐らく揉めるような「意見」を書く方は、それは単なる客観的「事実」に過ぎない、と信じているケースがありそうに思います。この方を説得する場合には、意見・事実の区分け基準を用いるよりは、典拠主義を用いるほうが簡単かな、という気がすることでしょうか。
日本語版の例として挙げる内容という本題に戻せば、合成例は論理的には相当正しい(正しそう)な例にするのが望ましいのかな、という気がします。その意味では、今の案ではIch57さんの例あたりが、(テーマの無難さを含めて)適切なのかな、という印象を持っています。--磯多申紋 2007年4月7日 (土) 14:47 (UTC)[返信]

こんにちは。ご参考までに私見を述べます。まず、この「シカゴマニュアル例」は、この項目における例としてとても不適切と考えます。本文の「A+B=C」の例なら、以下のような単純例によるべきではないでしょうか。

  • 1 地震が起きた(公知の事実)
  • 2 被災地で人が死んでいたと通報があった(報道事実)
  • 3 地震で死んだもの(因果関係を断定した意見:地震とは無関係な事件の可能性もあるから)

次に、問題の「シカゴマニュアル例」は、この単純例より数段複雑なものです。この「剽窃かどうかで論争している事実」を次のように書くのはダメだ、ということなのでしょう。

  • 11 スミスは剽窃行為だと言っている(事実)
  • 12 ジョーンズは許容範囲なので剽窃ではないと言っている(事実)
  • 13 シカゴマニュアルのルールに照らせば剽窃ではない(個人の意見/評価)

そして、どこが複雑かというと、

  •  11-12が表現内容と表現事実の混同を招きやすい「発言の引用」を扱っていること
  •  13の内容そのものが論争という事実に関与していない個人の見解であるのに論理的であること
    •  13その1、演繹と反語仮定(もしabcならばxyzのみというルール違反になる、しかしDEFによるとこの違反はopqではない)
    •  13その2、相関判断の難しい用語(推奨する慣行に対するルール違反になる、しかし定義上によるとこのルール違反は禁止事項ではない)
    •  13その3、いわゆる解釈(もし許容範囲外ならばシカゴマニュアルが推奨する慣行に対するルール違反になる、しかし剽窃の定義によればこのルール違反は剽窃ではない、→含意:許容範囲外であっても剽窃ではない)
    •  13その4、内容自体もニ元(出典の直接引用か間接引用か、さらに許容範囲か(引用の仕方如何))
    •  13その5、論理的帰結に擬態した個人意見の提示

結局のところ「シカゴマニュアル例」は、次のような骨格をしています。

  • 21 フライデー編集部は暴力行為だと言っている(事実)
  • 22 タケシ軍団は許容範囲の抗議で暴力ではないと言っている(事実)
  • 23 「宮崎県条例」に「照らし解釈する」と「許容範囲外だとしても」「暴力ではない」(意見/評価)
  • 24 ちなみに、タケシ軍団は刑事罰を受けた(事実)
いかに論理的であっても個人の見解ではダメです、というのが、この例示の意味なのだと思いますが…。みなさまの叡智に期待しております。--211.5.16.77 2007年4月7日 (土) 20:09 (UTC)[返信]
いろいろありがとうございます。だいたい皆さまがおっしゃっていることの繰り返しなのですが、シカゴマニュアルの例は「ジョーンズは悪くない」という個人的意見を、「シカゴマニュアルにこう書いてある」というさも信頼性の高そうな資料を持ち込むことで、さも事実であるかのように紛れ込ましている点に問題があるのでしょう。問題となっている節本文に書いてあるように「AとBの情報を組み合わせて、Cという立場を推進するように」書くことが問題なので、Cについて「特定の立場を推進する」のでなければ、とりあえずそんなには問題としていないのだと思います。まあでも、シカゴマニュアルの例がわかりにくいのは確かです。
単純例もあげてもいいと思うのですが、単純な例の場合、1) 個人的解釈と誰にでも導ける論理的結論との区別がつけにくい(後者は認められている)、2) 実際の記事執筆の場で出会う、複雑な状況を例示し切れない、という問題があります。実際自分が出会った独自研究の例では、単純な例と、シカゴマニュアルの例の中間くらいが多いように思います。ですので、(英語版でも似たような主張がありますが、)単純な例をあげるにしても、複雑な例も一緒に、複数上げるのがよいだろうと思います。--Aotake 2007年4月8日 (日) 02:15 (UTC)[返信]
ある程度、意見は出尽したといったところでしょうか。私なりにここまでの議論をまとめて本文改訂案を出してみますので、ご意見お寄せください。1週間ほど待って、特に何もなければ「ウィキペディアの一記事から…」以降の本文を置き換えましょう。なお、この部分については、Attributionが没になった場合はNOR本文に移植するということでよろしいでしょうか。
〈本文案〉
例えば、次のような記述は「特定の立場を推進するような、公表された情報の未公表の組み合わせ」となります(なお、登場する名称は架空のものです)。
ゴンリという食材にはゴンリナーゼという成分が含まれている(権理太郎「ゴンリの含有成分分析」『月刊ゴンリ』xxxx年x月)。一方ゴンリナーゼには、がん細胞を殺す作用がある(権理花子「ゴンリナーゼの抗がん作用について」『週刊ゴンリ』xxxy年x月xx日)。したがって、ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる。
このように書いてあれば「ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる」という記述は、一見もっともらしく見えます。しかし、もしこの記述に続けて、更に次のような文章があったらどうでしょうか。
「一方、ゴンリにはゴンリペプチドという成分も含まれている(権理太郎「ゴンリの含有成分分析」)。そしてゴンリペプチドには、発がん物質としての活性があることが知られている(権理五郎「ゴンリペプチドの発ガン性」『週刊ゴンリ』xxxz年z月xx日)。したがって、ゴンリを食べることはがんリスクを増加させることにもなる。」
この文章の問題は、「ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる」という点についても、「ゴンリを食べることはがんリスクを増加させることにもなる」という点についても出典が示されていないことです。もし「ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる」あるいは「ゴンリを食べることはがんリスクを増加させることになる」という趣旨そのものを明記した出典を加筆者が提示できないのであれば、これらの記述は「独自研究」となり、記事本文から削除されます。
理解を深めるために、もう1つ例を見てみましょう。
ロックバンドのガガガガーはそれまでほとんどテレビ出演を行なっていなかったが、シングル「ガガガガーマックス」の発売前後にテレビへの露出が著しく増えた(xxxx年x月x日「ミュージックガガガー」、同年x月y日「マックスミュージック」ほか)。この結果、ガガガガーの出すCDはそれまでオリコンチャートで1位になったことがなかったが、その週には、シングル「ガガガガーマックス」が2位に2倍の差をつけて1位となった(xxxx年x月z日発表オリコン週間チャート)。
この文章も、一見もっともらしい記述になっています。しかし「この結果」という点に問題が潜んでいるのです。なぜなら、オリコンチャートの順位とテレビ出演という典拠のある情報を組み合わせることで、「『ガガガガーマックス』がオリコンチャート1位になった理由は直前に激増したガガガガーのテレビ出演である」という典拠のないウィキペディアンの個人的見解が主張されているからです。もしガガガガーのテレビ出演と「ガガガガーマックス」のチャート1位の因果関係にはっきりと言及した資料が提示できないのであれば、この文章は「この結果」ではなく「また」で接続されなければなりません。
--Aotake 2007年4月15日 (日) 08:37 (UTC)[返信]
1週間経ちましたが、異論ないようなので、本文を変更したいと思います。最初の御提案いただいたみっちさんはじめ、みなさまありがとうございました。なお、Wikipedia‐ノート:独自の調査の方でこの文案を移植することについて正式に提案したいと思いますので、なにかありましたら、ご意見お願いいたします。--Aotake 2007年4月22日 (日) 08:44 (UTC)[返信]


ゴンリの例[編集]

インデント戻します。 前半の文章ですが、一部わかりにくいので、変えたほうが良いように思います。 「しかし、もしこの記述に続けて、更に次のような文章があったらどうでしょうか。...」以降の「『ゴンリを食べることはがんリスクを増加させることにもなる』という点」の例示は不要ではないでしょうか?「ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる」との主張がORである点が見過ごされやすいような文章の展開になっているように思います。 議論の流れを読み取り逃しているかもしれませんが、ちょっとご説明いただけると助かります。 よろしくお願いします。--Masao 2007年4月22日 (日) 09:30 (UTC)[返信]

えーと、件の例示は私が挙げたものが元ネタになっていますが、その前半部(「しかし、もし〜」以前)だけでは不十分だろう、と私は考えています。この例は「あるある大事典」などで紹介されるような健康情報に見られるような、誤ったロジックです。恐らく、Masaoさんをはじめとして、今ここでの議論に参加している人であれば、このロジックの誤りを容易に見抜けることでしょう。しかし、あるあるなどの健康情報番組の事例からも判るように、実社会にはこういったロジックを鵜呑みにしてしまう人もそれなりに存在しているわけです。また、ウィキペディアに参加している中高生には、こういったロジックの問題点がまだ判らない人も、それなりにいるかと思います。で、この例文を本当に読んで欲しいというか、実際に、独自研究にあたる文章を書き込まれたときに「これを読んで」として紹介するときは、そういった参加者層を相手にするケースというのが、それなりの頻度で起こりうるだろうと。だいたいそのくらいまで想定した上で、誰もが論理的な矛盾に気付けるように例示すべきだろうと考えて(さらにその矛盾に「自分で到達できる」ことを目標にして)、冗長にはなりますが、両方のケースを一緒に例示しています。
現在の文章、ないし例示の方法については、まだいくらか推敲の余地はあるかもしれませんが、当初の質問である「二つ目の例示は不要ではないか」というMasaoさんの問いかけに対しては、「読ませる相手を想定すると、一つ目の例示だけでは不十分だろう」という意見を提示させていただきます。もちろん、上で述べたような想定読者層に正しく意図を伝えるのが目的なので、その目的が達成されるのであれば、私は二つ目の例示に拘るものではありません。まぁ「同じ論理で、正反対の予測を導出して、矛盾に気付かせる」というのが、例を考えるのが楽だった、ということなので。--Y tambe 2007年4月24日 (火) 11:39 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。了解です。でしたら、後半部は残したまま改善する方向で考えたいと思います。単に現在の日本語表現に問題があるのだろうと考えていますので。つまり最初の方の「ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる」との主張がORである点が読み取りづらいのです。おそらく、「このように書いてあれば『ゴンリを食べることはがんになるリスクを減少させる』という記述は、一見もっともらしく見えます。」という中途のまとめ方が誤解を与えそうに見えます。ここは、
...一見もっともらしく見えますが、独自研究となっていますしかし、もしこの記述に続けて、更に次のような文章があったらどうでしょうか。この点が明白になるでしょう。
という感じにまとめておかないと、余計な誤解を与えそうな気がします。というか逆に分かっている人ほど、アレ?と首をひねってしまうそうな気が...。--Masao 2007年4月25日 (水) 08:49 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。Masaoさんご指摘の点は、私があまり上手にまとめられなかったために発生してしまった問題だと思います。ご提案のように書き換えることに異存ありません。--Aotake 2007年4月27日 (金) 06:51 (UTC)[返信]
ご確認いただきありがとうございました。先ほど本文の方を修正しておきました。--Masao 2007年5月3日 (木) 06:32 (UTC)[返信]

事実と意見[編集]

本筋からははずれるかもしれませんが、次の部分が気になっています。

>>>原則としては「意見は書いちゃだめ」ということでも、十分なんじゃないかな

意見について、すべて削除するということはできないと思います。ほかの文書では、Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなWikipedia:信頼できる情報源#いくつかの定義Wikipedia:言葉を濁さないで意見について論ぜられており、私は次のようにまとめています。

  • 意見ではなく事実を書ける場合は、事実を書く
  • 意見を書くんだったら、誰の意見かをはっきりさせる

こうした方針をここでも踏襲するのがもっとも良いのではと私は思います。その前提として、「事実と意見を分けて書く」というのも方針に記載してあるべきでしょうね。このことは英語版でも提案すべきかな、と考えています。

なお、Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなの「意見は書くな」は誤訳に基づく記述であり修正が必要ではないかと、Wikipedia‐ノート:中立的な観点#「意見は書くな」は修正すべきではでコメントしています。j8takagi 2007年4月21日 (土) 02:28 (UTC)、 2007年4月21日 (土) 02:36 (UTC)一部追記[返信]

えーと、上で述べた流れとして「意見は書いちゃだめ」と一言でまとめちゃってはいますが、その前段の(長ったらしい^^;)部分を読んでいただきますと、「誰かが『信頼できる情報源』で述べた意見は、『誰それが〜と述べた』という『事実』として書くことができる」ということを、前提としています。つまり「誰の意見かをはっきりさせた上で書かれた『意見』の記述は、『様々な意見に関する事実』ないし『それも含めた事実』にあたる」ということで。なので、Wikipedia:中立的な観点で述べられているのと、結局のところは同じことを言っているのだと考えていただければと。
さらに、
  • 意見ではなく事実を書ける場合は、事実を書く
  • 意見を書くんだったら、誰の意見かをはっきりさせる
ということですが、これは文章を書く上では確かに重要なことです。ただ、ウィキペディアにおいてはこれでは不十分で、(特にこのAttributionで述べなければならない)もう一つ大事なポイントとして、
  • 単なる「自分の意見」、あるいは「『信頼できる情報源』とは見なしがたいものでしか述べられていない意見」は書いちゃだめ(=除去されても文句はいえない:上で述べた「意見は書くな」はこの意味、狭義の『意見』の意味で用いてます)
というのを付け加えなくちゃいけないだろうな、と考えてます。つまり結局のところ、この「意見」についても、一つの「事実」という文章形式で書かれた上で、Attributionなり、検証可能性なり、独自研究の排除なり、そういった方針によって排除される対象になる、と(何だか、話がループしてしまうわけですけど^^;)--Y tambe 2007年4月24日 (火) 11:36 (UTC)[返信]

英語版動向[編集]

なんだか、さらなるちゃぶ台返しなのですが、、、
検証可能性および独自の研究en:Wikipedia:Attributionとして統合し2方針を廃案とするとの決定はウィキペディア全体の編集方針に関わるため一旦差し戻しという形で、ジミー・ウェールズによって統合案が差し戻されたようです(en:Wikipedia:Wikipedia_Signpost/2007-03-20/News_and_notes#Policy_changes)。

議論は全く追いきれていませんが、en:Wikipedia:Attribution/Pollで合意確認のための投票準備が行われているところな様子です。 取り急ぎご報告まで。--Masao 2007年3月22日 (木) 04:17 (UTC)[返信]

Straw poll(意向調査?)だそうです。いつの間に en:Wikipedia:Reliable Sources を ATT の FAQ ページに衣替えする話まで進んでいたのですね。お手並みを眺めさせていただきましょう。日本語版の ATT のほうも、名称が決まった後、統合の是非について全体向けの意向調査を行ったほうが今後のためにはよさそうに思います。Wikipedia:独自の調査 が公式化されていない点、英語版と状況は異なりますので。--スのG 2007年3月22日 (木) 05:03 (UTC)[返信]

全般的に彼の意見だから尊重するけど、何を今更、と言う感が英語版のノートでもありますね。。Straw Pollは日本語版のWikipedia:投票の指針に相当するものですね。ウィキペディアの根幹に関わる方針だという発想が前提にあるようですので、他の方針に比べても英語版の動向を追わざるを得ない部分があるように思います。日本語版独自の投票等が必要かどうかは、どこまで日本語版が独自の方針を立てていく気か、にもよるように思います。少しすれば英語版の方向性は固まるようにも思いますので、日本語版の投票等の準備も進めつつ、経過を追っていけば良いかと思います。--磯多申紋 2007年3月22日 (木) 05:23 (UTC)[返信]

あぅう。まずは情報ありがとうございます。こまめに動向はチェックしていたつもりだったのですが、ここ数日はみていませんでした。とりあえず、JimboさんとSlimVirginさんが個人的に話をして、投票をしている間はV, NOR, ATTを並立させておくことになったらしい、というところでしょうか。日本語版での動向に関しては、磯多申紋さんのおっしゃるとおりと思います。ATTがなしになって、独自の調査の公式化の議論を再開しないといけないとなると、それはそれでしんどいことに思えますが、これだけコアな方針となると、英語版の動向に従うことも必要でしょう。なんにせよ、乗りかかった船なので、Attributionの日本語版における方針名については、このまま投票をすすめたいと思います。ご協力よろしくお願いします。(ほんとうにJimbo氏は20日にはじめてこの話を知ったんでしょうかね……)--Aotake 2007年3月22日 (木) 06:02 (UTC)[返信]

(ご報告が遅れましたが、英語版本文が保護されていたので、この機に日本語本文を保護時点の内容にまでupdateしました。余り大きな変更はありません。Aotakeさん、このページ冒頭の記載をありがとうございました。)現在の英語版での議論「会場」は、en:Wikipedia talk:Attribution/Community discussionのようです。この後、straw pollに進む、というのが一応の方向性のようですが、まだどのタイミングで動くのか不透明にみえます。--磯多申紋 2007年3月23日 (金) 17:49 (UTC)[返信]

この記事は、ウィキペディアにとっては軽い衝撃です。ウィキペディア英語版ではその影響があるのか無いのか、要は、verifiability を軽んじて来たその管理体制の甘さが招いた事件とも云えなくもありません。米国メディアでは珍しくない手法のようですが、古いモノに新しい名前を付けて注意喚起する、という手法で登場したのが attribution ということではないのかな?と勝手に思っていますが、要するに、出典をしっかり明記しましょう、ということですよね。日本語版においては、verifiability の和訳の登場がまだ新しいので、見渡すところ verifiability 自体が根付いているとは云えません。その意味では、verifiability が attribution に統合されてもインパクトは大きくないのかも知れません。日本語ウィキペディアの場合は、記事数を増やすのが第一義であった時期もあるのでしょうか。いずれにせよ、verifiability 同様、徹底した管理なくして attribution を根付かせるのは難しいでしょう。今、ウィキペディアは、形じゃなくて実が問われている?!--一般人 2007年3月31日 (土) 20:35 (UTC)[返信]

英語版で30日からstraw pollが始まったようですね。多数決ではなく、意見調査ということのようですが、現時点で賛成意見が300に、反対意見が250に迫ろうかという勢い。どう収拾つけるんでしょうね……。以上、覚え書き程度のお知らせまで。--Aotake 2007年4月3日 (火) 03:30 (UTC)[返信]
関連する英語メーリング・リストをつまみ読みすると、どうやら、Jimbo派と反Jimbo派の対決かとも思えるようなやりとりもあったりしてますね...--一般人 2007年4月5日 (木) 15:14 (UTC)[返信]

英語版en:Wikipedia:Attribution/Pollにて行われていた意見調査が締め切られ、結論だけ言えば424の賛成、354の反対、102の中立、という意見が集まったようです。一応、反対よりは統合賛成が上回っているようですが、統合にコンセンサスが得られていると見るのは難しく、では次にどうするのかは協議が必要、というニュアンスを感じます。これだけの意見をハンドルするのはなかなか大変なところですね。意見調査をすると決めた時点でこの手の流れは予期できたともいえますが。--磯多申紋 2007年4月7日 (土) 14:27 (UTC)[返信]

冒頭部の訳出2[編集]

Aotakeさんの訳出から既に1か月以上経過しており、文の構成も異なってきており、放置しておくのもよくないなと思ったので、まず冒頭部だけ、この版から再訳出させていただきました。なお、私個人の感覚では、attiribution を 「典拠に辿り着けること」「典拠を確認できること」「出典に拠(よ)ること」というような意味で捉えております。また、"Wikipedia:Attribution"の日本語版は、単純に"Wikipedia:典拠"が分かり易くて良いのではないかと思っておりますので、ここに勝手ながら、遅ればせながら、"Wikipedia:典拠"案を提出させていただきます。 -- BBBeaver 2007年5月4日 (金) 22:20 (UTC)[返信]

ご苦労さまです。訳文を拝見して、私の方でもさらにすこし手を加えさせていただきました。一部、用語や表現を差し戻しているところもあります。何ヶ所か、意図を述べておきますと、
  1. sourceを「情報源」でなく「資料」にしているのは、Wikipedia内の「資料」と「情報源」の記事内容などを参照しながら、日本語として「資料」のほうが自然と考えているからですが、どうでしょうか。現代人には「情報源」のほうがわかりやすいでしょうか。
  2. 英語原文にない部分を追加されたようですが、冒頭概説部ということもあり、不用のように思うのですが、どうでしょうか。ひとまずコメントアウトしてみたのですが。(なお「典拠」の解説を加えている部分は、ノートでの議論に基づいて追加されています。)
  3. materialなどを「記事」に置き換えられたのを、「情報」に差し戻しています。「記事」というと、一つ一つの記事全体と捉えられてしまうと思ったからですが、どうでしょうか。
  4. 「立証責任」ですが、慣用的な使用法だと思うので、「提示する」に替えました。(証明責任参照)
引き続き、最新版の移入、訳の修正など、よろしくお願いいたします。方針名についても、もう一度がんばって意見をまとめないといけないですね。「典拠」も投票の時にすでにあがっていたのですが、あまり人気がなかったようです。--Aotake 2007年5月5日 (土) 01:51 (UTC)[返信]

『独自研究でないものとは何か』に関して[編集]

独自研究でないものとは何か、にある、
>ただし、この帰結は、専門知識を持たないあらゆる読者にとって理解可能でなければなりません。
ですが、これが独自研究の『専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる(昔はこれだった→何らの専門知識がなくとも合理的な人であれば誰でも、その正確性を簡単に検証できる)』にとって変わるって事であり、
新しいものは(極端ですけど)小学生でも理解できる内容でないといけない(または議論になった時一人でも理解できない人がいる場合掲載できない)って解釈できてしまう内容に変わるって事ですか?これって論理的演繹のレベルを最低ラインに落とすって事ですよね。
たとえば『日本人は全て右利きである』『太郎は日本人である。』が真の時に当然『太郎は右利き』ですが、小学生なら『世の中には左手の人も両利きの人もいるぞ』と条件の定義を理解できてないような発言をして、それが記事に反映される結果になるような気がするのですが、いいのですか?--Naisikyou 2007年6月4日 (月) 20:57 (UTC)[返信]

どちらの文書にも、リンゴについての(架空の)例が示されていて、内容は変わりませんよね。結局、どちらも言っていることは変わっていません。要求されているのは「論理的演繹のレベルを最低ラインに落とす」ことではありません。解釈を加えてしまってはいけない、別々のソースを組み合わせて推論することも厳に慎まねばならない、ということです。

あなたの挙げた例ですが、その2つが同じAという資料(あるいは人物)によるものなら、『Aによれば太郎は右利きである』としても多分許されるでしょう。しかし『Aによれば日本人は全て右利きで、Bによれば太郎は日本人である』という場合、『AとBを信じれば太郎は右利きである』と述べてはいけないのです。Aの言う「日本人」は太郎を含んでいないのかもしれないのですから。 -- NiKe 2007年6月5日 (火) 02:17 (UTC)[返信]

NaisikyouさんはNORの「分別のある大人」が「あらゆる読者」にかわった点を問題にしておられるのですよね。この部分は、英語版Attributionの"It should be possible for any reader without specialist knowledge"から直接訳しているのですが、もちろん、any readerというのは文字がようやく読めるような子供まで含めるのではなく、百科事典が一般的に読者の対象と考えている人々のことを指しているはずです。それこそ「分別」で判断すべき点でしょうが、どうしても気になるならば、「義務教育を修了していれば常識的に理解できる」などとしてもよいかもしれませんね(まあ、これはこれでPOVでしょうが)。--Aotake 2007年6月5日 (火) 02:43 (UTC)[返信]
横から失礼しますが「専門知識を持たないあらゆる読者にとって理解可能」というのは、個々の読者が個人的に理解できない例があってはだめ、ということではなくて、専門知識が欠けていても理解できる程度に一般的に理解可能なものであれば十分ということだと思います。「あらゆる(読者)」の部分を強調すると、例外的にでも理解できない人がいてはいけない、という意味に取れそうなので、「あらゆる」をはずしても良いのではないかと思います。--磯多申紋 2007年6月5日 (火) 03:19 (UTC)[返信]
ふむ。確かに「あらゆる」をとれば解決する問題ですね。全く気付かず、恥ずかしい限りです。とりあえず直してみます。--Aotake 2007年6月5日 (火) 03:50 (UTC)[返信]

私は、「あらゆる」を取ってしまうことには反対です。「あらゆる」がなくなると、「俺には理解できるのだから、掲載してよいはずだ」というトンデモの人に対して対抗することが困難になります。「あらゆる読者」(「あらゆる分別ある大人」と言う表現でも良いですが)にとって理解可能でなければ、編集者自身の数学的計算や論理的演繹を記述すべきでないと思います。--Dwy 2007年6月5日 (火) 10:33 (UTC)[返信]

私は「あらゆる」抜きを支持します。この部分は、「あらゆる読者」と「読者」ではなく、「専門知識を持たないあらゆる読者」と「専門知識を持たない読者」であり、十分な限定条件があります。「専門知識を持たないあらゆる読者」は、「あらゆる」を付けることによって、「(上で言われてるような「義務教育を修了していれば」身に付いているはずの程度の)基礎知識も専門知識もどちらも持たない読者」が含まれることを想定せざるをえないのに対して、「専門知識を持たない読者」についてはそういう表現がない分、暗黙的に「基礎知識はあるが、専門知識は持たない読者」のことを指している、という解釈が可能です。一意性を確保するためには、そのことを明示しておくのも手でしょうが、まぁ表現的にややこしくなりますし、「専門知識を持たない人」程度の表現で、やはり十分許容範囲内ではないかと。
したがって、そういうトンデモな人に対しては「私は『基礎知識があり専門知識は持たない読者』だが、この内容は理解できないので、私にも理解できるように改稿してくれ」という要求が出来るし、一方で「ボクは専門知識を持たない読者ですが、ボクには判りません」という小学生(または、そのふりをした記事を荒らそうという人)が現れたときに、「そもそもあなたは、専門知識以前に基礎知識が欠落している」という形で反論することが可能になります。こうしておけば、どちらのケースであってもノートでの議論やコメント依頼等を通じて、問題解決の道筋につなげていくことができます。ところが、ここを「あらゆる」にしちゃうと、前者は防御できても後者が防御できません。双方のケースを含めて、さまざまなケースを俯瞰的に考えていただければ、と。--Y tambe 2007年6月5日 (火) 11:04 (UTC)[返信]
私の感覚では、(百科事典の)読者であるかぎり「基礎知識も専門知識もどちらも持たない読者」は当然除外されているはずだと思います。しかし、それが心配だとおっしゃるなら、「あらゆる分別ある大人」=「分別ある大人なら誰でも」でも結構です。
現在の文面は単に「専門知識を持たない読者にとっても理解できるものでなければなりません」となっているわけですが、これではハードルが低すぎると思います。「私は『基礎知識があり専門知識は持たない読者』だが、この内容は理解できないので私にも理解できるように改稿してくれ」は、「私も『基礎知識があり専門知識は持たない読者』だが、この内容は十分理解できる。」と反論されると、それ以上対抗することが困難です。基礎知識がある読者なら誰でも理解できるレベルを要求すべきだと思います。--Dwy 2007年6月5日 (火) 12:17 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。まず「分別ある大人」等の表現に関しては、そちらの表現の方が「分別ある」や「大人」の解釈を巡るトラブルを生じさせる可能性が高く、「専門知識のない読者」よりもはるかに問題が大きい表現だと考えます。「専門知識のない読者」が、仮にベストではないとしても、両者を比べた上ではベターな表現だと思います。
また、「私は『基礎知識があり専門知識は持たない読者』だが…それ以上対抗することが困難です」についてですが、そもそも「そういう図式でなければ駄目」というか、つまりDwyさんはそれに「対抗する」という側に立脚した意見を述べてるに過ぎないという点に気付いていただければ、と。上で「俯瞰的に考えていただきたい」と言ったのはその点です。その二つの対立する主張のうち、どちらが妥当かはケースバイケースでしかない問題なんですね、そもそも。どちらの意見が正しいのかは、双方の意見を尽くし、議論が平行線を辿るならば第三者が介入し、必要があればコメント依頼をして、その都度その都度、「議論による解決」を図る必要がある類いのものなんです。--Y tambe 2007年6月5日 (火) 12:33 (UTC)[返信]
この節の冒頭のNaisikyouさんのコメントによれば「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる」->「専門知識を持たないあらゆる読者にとって理解可能でなければなりません」と変化してきたとのことですが、常識として「お子様」は「読者」に含まれないという立場から言えば、これらはいずれも「基礎知識がある読者なら誰でも理解できる」の意味だったのだろうと思います。ところが、今の「専門知識を持たない読者にとって理解可能でなければなりません」というワーディングでは、「全員でなくても、何人かの基礎知識がある読者が理解できれば良い」と解釈できるようになってしまっており、明らかに要求水準が下がっています。この点を認識した上で議論が行われ、その結果として現在のワーディングになっているのなら文句はありませんが、そうではないですよね?そもそもは、「お子様には理解できない」と言われると困るという点に対処しようとしただけですから、「あらゆる読者(但しお子様は除く)」でよかったはずです。それなのに、単に「読者」では意味が相当違ってくると気づかないまま(あるいはその点を議論しないまま)「あらゆる」を取ってしまったので、「おかしいのではないですか?」と異議を述べているわけです。--Dwy 2007年6月5日 (火) 13:05 (UTC)[返信]
なるほど、おっしゃりたいことが判ってきました。つまるところは、表現の問題で、元々の英文として上に掲示されている、"any reader without specialist knowledge"というものを翻訳した文章が、「専門知識を持たないあらゆる読者( = all readers including those without 〜 とも解釈可能)」になったものから「あらゆる」を抜いたことで "a reader (or some readers) without specialist knowledge"になってしまってる、少なくともそう解釈する人が出てくるのではないか、ということですね。おそらく別の表現を考えること(まぁ正確性はさておきいくつか挙げるなら、「専門知識を持たないどんな読者にも(おそらく「あらゆる〜」よりもニュアンスが少し弱い)とか「専門知識を持たない読者の大部分」とかでしょうか)が、解決につながるかもしれませんね。ただ、私はやはり単に「専門知識を持たない読者」という表現でも運用レベルで十分フォローが可能じゃないかな、と思います。「専門知識を持たない読者」という表現には、それだけで不特定性が含まれています(読者について特定する要素が少ない)から、「特定少数が理解できる」という解釈に対しては、そのままでも十分反論可能となると思いますので。ともあれ、この表現については、他の方々の意見も合わせて調整した方がよさそうですね。--Y tambe 2007年6月5日 (火) 13:55 (UTC)[返信]
なんとか言いたいことが判っていただけたようで、良かったです。私としては「運用レベルで十分フォローが可能」というのがかなり疑問なので異議を述べているわけですが、かといって、どうしても「あらゆる」の文言がなければいけないということでもありません。「あらゆる」はなくなったけれど、「一部の人でよい」という意味ではないことが確認できれば、それでよいのかなと思っています。(例えば「運用レベルで十分フォローが可能」という判断の下にワーディングを変更したことが確認・記録されれば、運用レベルでフォローしきれなくなったとき、またここに戻ってきて議論できますからね。)--Dwy 2007年6月5日 (火) 14:22 (UTC)[返信]

(コメント)あらゆる、の点について掘り下げた議論をしていただいてありがとうございます。Dwyさんのご指摘をこの時点で押さえておくことには意味があると思います。

  • 今回の修正で「あらゆる」を外したことは、それを強調しすぎるのを嫌ったもので、「あらゆる」でなくていい、という意味には解釈しない、というのが修正の前提になっていると思います(この点は該当箇所削除について反対解釈をしない、ということです)。
  • 基準の適否については、特定の執筆者が専門的・基礎的知識を持っているか、はウィキペディア上で検証できませんから、内容について、私は理解できる、とか、私はできない、というような執筆者個人の解釈はいくら積み上げても意味がないと思います。仮に理解が難しいという意見があれば、少なくてもノートにて、説明を試みた上で、独自研究に当たらない例外として認められるに足りるかどうかについて、特定の人間ではなく、複数の意見を求めることになるのだと思います。

--磯多申紋 2007年6月5日 (火) 19:33 (UTC)[返信]

廃案の提案[編集]

みなさまこんにちは。Attributionの翻訳、修正、ページ名検討では多くの方にご協力いただき、ありがとうございました。さて、その後、英語版での動向をずっと見守っておりましたが、最近はhisotricalテンプレートをはったりはがしたりが続いているようで、基本的には、Attributionによる検証可能性と独自研究禁止方針の置き換えは頓挫したと見るべきのように思われます。また、日本語版においても、ここでの議論の甲斐もあって独自研究禁止の方針が公式な方針としてリリースされましたし、ひとまず、Attributionの方針はなくとも運営できていける状態にあると思います。そこで、ここまでご協力いただいたみなさまには申し訳ない思いもあるのですが、日本語版でもいったんこの文書を廃案とし、歴史的文書にすることを提案いたします。ご意見の程、よろしくお願いいたします。--Aotake 2007年10月29日 (月) 11:50 (UTC)[返信]

なんとなく残念な気もするのですが、さりとて現状では廃案にしない合理的な理由も見つからず、ご提案に同意します。お疲れさまでした。--スのG 2007年11月4日 (日) 20:46 (UTC)[返信]
いろいろと副産物もありましたし、この文書自体はhistoricalに移すということでよいのではないかとおもいます。 --Hatukanezumi 2007年11月5日 (月) 09:19 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございました。異論がありませんでしたので、historicalを貼付しました。--Aotake 2007年11月10日 (土) 13:50 (UTC)[返信]
採用を見送られて廃案になった草案ですから、historicalではなくRejectedでは? --Vantey 2007年12月6日 (木) 11:26 (UTC)[返信]
うーん、やっぱりそこに突っ込みがきましたか。historical とrejectedについて、どういうときにどちらを貼るか、というのは明確に決まってはいないと思うんですが、「草案」として出されていたもの、ということからはrejectedの方が適切だという意見もあるだろうなとは思っていました。ただ、いちおう、historicalにするのを提案したのは、明確に合意によってrejectされたということでもないですし、今後また議論が再開する可能性も残しているというほうが適切かな、と考えてのことです。英語版のほうも、ずーっとごちゃごちゃやっていますし、むしろ「却下された草案」にすることを提案したらいろいろ議論になるかななど考えて、historicalにする方を提案したのですが、いかがでしょう。--Aotake 2007年12月6日 (木) 14:54 (UTC)[返信]
私が先のような疑問を持った理由は、ひとつはjaのTemplate:RejectedおよびCategory:却下された草案には "採用を見送られた草案" という説明がなされていること、もうひとつは本文書は既存の上位文書(基本方針/ガイドライン)と並立しながら検討がなされてきており、各所からのリンクもそのように注記したうえでの紹介であったので、運用段階に入っていた文書とは考えられず(ちなみに他の文書では草案でも事実上の運用に供されているものはありますね)、運用以前に廃案化したという意味では前記 "採用を見送られた草案" にあたるのではないか、と思ったためでした。Category:歴史的文書には "かつて運用されていたが、運用廃止となった文書" が多く含まれていますし。
しかしAotakeさんのご説明を読んでいるうち、本文書で検討されたエッセンスは既存文書の充実のために生かされており、この文書全体を「却下された」と断じてしまうのはやはり違うのかな、というふうに思えてきました。rejected案は外形的理由、historical案は実質に立脚した理由、と言ってもいいかもしれません。
このような齟齬が生じてしまった原因として、実際は "採用見送り文書" 用なのに「却下された草案」という威圧的なカテゴリ名なのがまずい、あるいは逆にRejectedの説明が「reject」「却下」という強いニュアンスの題名に反して前記のようなやわらかい言い回しであるのがまずい、という考え方もできますが、そこを何とかしてまで分類変更を主張したいわけでもないですし、おかげさまで疑問は氷解しましたので、とりあえず今のままでも悪くはないのではと思います。お答えありがとうございました。 --Vantey 2007年12月8日 (土) 12:48 (UTC)[返信]