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ミスワカナ・玉松一郎(ミスワカナ・たままついちろう)は、日本の昭和初期から戦中にかけて活躍した夫婦漫才である。ワカナはイブニングドレスを着て、一郎は背広にアコーディオンを持ち、しゃべくりを基調としながら時おり歌を交えて華麗に繰り広げられる漫才は、横山エンタツ花菱アチャコと並び一世を風靡した。ミスワカナを名乗った人物は4名存在するが、初代が最も有名である。

ワカナは、1925年初代平和ニコニコとコンビを組み、千日前楽天地に出演し、この頃は大八会所属、同地で一郎と出会い恋に落ちる。しかし、幼少期から許婚の玉子家金之助がいたワカナは、1928年郷里に戻り結婚して、後の三崎希於子をもうける。一方、一郎も両親に反対され仕事まで辞めさせられる。

1929年に、ワカナは大阪に戻って活動再開。一郎も活動を再開し、たまたま玉造の朝日座で無声映画で伴奏をしていたところ、ワカナも近くの玉造の三光館で漫才の修行をしていた。ある日タバコを買いに出掛けたときに2人がばったり再会し、周囲の反対を押し切って西へ駆け落ち。汽車の中でコンビを結成を決意し、玉松一郎の芸名は出会った場所の玉造の「玉」に一郎が当時住んでいた北区松ヶ枝町の「松」を取って名付けた。
広島の小屋で一郎がセロを持ってやる音曲漫才でコンビ初舞台。中国、九州地方を経て中国青島へ渡った。同地では漫才を続けていたが、一郎が土地に馴染めず、腎臓の病気で体調を崩し、塞ぎこむ日々が続く。ワカナは家計を支えるためダンサーやタップに挑み、一郎はこの頃にアコーディオンを習得した。
帰国後の1931年、ワカナは都家若菜に改名して一郎とコンビを組み、「若菜万歳一座」の名で九州地方へ巡業する。

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