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このウィキでページ「戦国 伊賀の乱」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- の4郡になった。 室町時代・安土桃山時代 おおむね仁木氏が伊賀守護をつとめたが、支配力は緩く、地侍による自治が進むが、織田氏により制圧された(天正伊賀の乱)。 第二次天正伊賀の乱ののち、伊賀3郡を織田信雄が、残りの1郡を織田信包が領することになった。 この頃に600を越える土塁付の…17キロバイト (2,579 語) - 2023年4月24日 (月) 23:23
- 天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。 北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一…11キロバイト (1,533 語) - 2023年9月2日 (土) 15:25
- の甲賀忍者の一人・多羅尾光俊の手引きにより、伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこなった。これにより、伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。 第二次天正伊賀の乱の詳細を「参考伊賀…19キロバイト (3,261 語) - 2022年8月16日 (火) 07:42
- の乱から足利義昭と織田信長の上洛までの期間を戦国時代とするものの、統一権力を重視するか、或いは地域権力を重視するかで始期と終期は変化するとしている。1960年代には鈴木良一が、明応の政変を戦国時代の始期とする説を提唱した。鈴木は戦国時代を、明応の…140キロバイト (24,218 語) - 2024年4月26日 (金) 01:03
- 藤林長門守 - 戦国時代 伊賀の三大上忍の1人 藤原千方 - 平安時代 弁慶夢想(伝林坊頼慶) - 伝林坊頼慶はタイ捨流の忍術を学んだあと、山伏として佐賀の霊山に渡り、彦山八天狗弁慶夢想として忍術を伝えた。 三田村次郎衛門 - 福岡藩初代藩主の黒田長政に仕えた渡り忍者。黒田流でありながら甲賀の…55キロバイト (8,138 語) - 2024年3月7日 (木) 09:03
- の領国にも争いが拡大する大乱となった。 明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。 11年に亘る戦乱は、西軍が解体されたことで収束したが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから一般に「応仁の乱…99キロバイト (16,085 語) - 2024年4月30日 (火) 00:33
- の元暦元年(1184年)7月、平田家継・藤原忠清ら伊勢・伊賀の平氏家人が軍事蜂起する。激戦の末に反乱は鎮圧されるが佐々木秀義が討死するなど鎌倉方御家人にも大きな被害が及んだ。この乱の影響で義経は畿内の治安維持に専念せざるを得なくなり、代わりに範頼が西国遠征の指揮を執ることになる。…51キロバイト (7,027 語) - 2024年5月12日 (日) 16:11
- の仁木氏は一時滅亡した。後に仁木義視が織田信長の援助で守護に返り咲いたが、国人の支持を得られず再び追放され伊賀は反織田の姿勢を明確にした(伊賀惣国一揆)。以降の仁木一族の動向は不明。 天正7年(1579年)9月、伊勢の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定(天正伊賀の乱)に乗り出したが、伊賀衆の…24キロバイト (3,743 語) - 2024年5月7日 (火) 12:54
- 甲賀流 (カテゴリ 出典を必要とする記述のある記事/2020年6月)の関係は密接だった。「鈎の陣」では、伊賀衆も甲賀衆とともに六角高頼へ助勢(『近江輿地志略』)するなど同盟・連帯することが多かったが、相争った時期もある(天正伊賀の乱では、甲賀は織田信長軍による伊賀侵攻路の一つとなった)。 天正13年、羽柴(のちに豊臣)秀吉によって甲賀の…18キロバイト (2,803 語) - 2023年12月29日 (金) 14:13
- 天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)、壬午の乱、壬午の役は、天正壬午年(天正10年・1582年)中に甲斐・信濃など武田氏の旧領だった織田氏の領国で起きた一連の争乱、具体的には同年2-3月の織田信長の武田攻め(武田征伐)と、同年6月の本能寺の変後の争乱(特に8-10月の若御子対陣)を本項目にて取り扱う。…22キロバイト (3,545 語) - 2024年1月19日 (金) 05:42
- 戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。 ウィキソースに北条五代記の原文「早雲寺殿廿一ケ條」があります。 ウィキソースに今川仮名目録の原文があります。 戦国時代の地域権力を指す言葉としては、古くは「戦国大名」の…33キロバイト (5,263 語) - 2024年4月19日 (金) 12:38
- 高野八誠 (カテゴリ 編集半保護中のページ)秘密潜入捜査官 ワイルドキャッツ in ストリップ ロワイアル(2008年) - 長谷部肇 役 大決戦!超ウルトラ8兄弟(2008年) - 藤宮博也 役 戦国 伊賀の乱(2009年) オンナゴコロ (2009年) 爆走ドリフトR(2009年) 20世紀少年 最終章(2009年) 天牌 黒沢最終決戦史(2010年)…18キロバイト (1,893 語) - 2024年4月30日 (火) 11:29
- 三重県 (カテゴリ 書きかけの節のある項目)の弟の織田信包を長野氏の当主とした。北畠家とは大河内城の戦いで対戦し、大河内城を大軍を率いて攻略し、次男の織田信雄を養嗣子として送り込み北伊勢地域を統治させた。また、信長は長島一向一揆との戦いや天正伊賀の乱(織田家の伊賀国侵攻)で伊賀・伊勢の豪族や一向宗を信じる北勢地域の…126キロバイト (15,661 語) - 2024年5月12日 (日) 08:36
- 伊賀越え」と称された(ただし、伊賀国はわずかしか経由していないという説もある)。 本項では、後者を主に解説する。 天正10年6月2日(1582年6月21日)未明、本能寺の変で織田信長が明智光秀軍に殺害された。信長の同盟者であった徳川家康は堺(現・大阪府堺市)に投宿していたが、変の報に際して取り乱…15キロバイト (2,393 語) - 2024年1月29日 (月) 12:32
- の乱」の表記が主流となり、次いで「承久の役」が使われることもあった。 江戸時代になると尊王論に基づく『大日本史』が「承久の難」と表記し、後鳥羽上皇を逆臣・北条義時の被害者として書く主張が生まれた。『大日本史』編纂に携わった安積澹泊は、『大日本史賛藪』で「乱」「難」と共に、初めて「承久の変」表記を用いた。…61キロバイト (10,575 語) - 2024年5月11日 (土) 12:41
- 2009年、第30回吉川英治文学新人賞候補となった。 同年、坂ノ睦の作画によりコミカライズされた同名作品が、『ゲッサン』(小学館)にて連載された。 2017年、嵐の大野智の主演で映画化された。 執筆にあたっては、天正伊賀の乱を伊賀側の視点で記述された「伊乱記」を中心に伊勢側の視点で書かれた「勢州軍記」などの史料も参考にしている。…33キロバイト (4,614 語) - 2023年12月18日 (月) 11:23
- 千葉誠治 (カテゴリ 日本の映画監督)CHIBAtwitter 巌流島 GANRYUJIMA - ウェイバックマシン(2006年1月4日アーカイブ分) メシア 伝えられし者たち D.P エンタゲット! 天正伊賀の乱 グランドサークル red letters 伊賀の乱 拘束 戦国 伊賀の乱 抜け忍 忍邪 女忍 AVN シュウカツ シュウカツ2 表示 編集…10キロバイト (900 語) - 2023年11月15日 (水) 08:06
- 伊勢平氏 (カテゴリ 日本の氏族)伊賀では三日平氏の乱など伊勢平氏系の反乱が相次いだ。壇ノ浦の戦いで平家の宗家が滅亡すると、家人となっていた伊勢平氏諸流の多くは没落した。一方で平家側につかなかった諸流は存続し、また平家の後裔を称する武家も存在する。 伊勢平氏の諸流の中で最も著名なのが維衡の子平正度の五男平正衡の…18キロバイト (1,735 語) - 2023年9月24日 (日) 09:52
- 六角高頼 (カテゴリ 戦国大名)の研究 第三巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-144-8。 戦国時代の人物一覧 (日本) 進藤貞治 蒲生貞秀 畿内・近国の戦国時代 六角氏に味方した甲賀の地侍 甲賀二十一家 甲賀五十三家 伊賀流-高頼には伊賀忍者の200人の家人もいて、鈎の陣にも参戦していた ^…12キロバイト (1,782 語) - 2024年5月2日 (木) 04:41
- 室町幕府 (カテゴリ 14世紀の日本の設立)室町幕府(むろまちばくふ)は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。足利幕府(あしかがばくふ)ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の…32キロバイト (5,141 語) - 2024年4月19日 (金) 12:15
- 姉妹プロジェクト:Wikipediaの記事, データ項目 『北条五代記』(ほうじょうごだいき)は、戦国大名・後北条氏に仕えた三浦茂正(三浦浄心)が江戸初期に著した後北条氏にまつわる仮名草子の読物全十巻である。ここでは明治期に博文館編輯局が仮名に漢字をあてた刊行物を底本とする。書中に種本の説明はないが、万治2年(1659年)版が種本と考えられる。