鄧当

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鄧 当(とう とう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。孫策に仕えた。妻は呂蒙の姉。

生涯[編集]

鄧当は孫策の部将として、主に山越の討伐に従事していた。また呂蒙の姉と結婚していたという[1]

呂蒙が15歳の時に、賊の討伐に出向いた鄧当の軍にこっそりついて行った。鄧当は呂蒙の存在に気付き叱ったが、呂蒙は家に戻ろうとはしなかった。鄧当は家に帰ると呂蒙の母にその事を知らせた。呂蒙の母は激怒したが、呂蒙は貧しさから抜け出すためには、危険を冒して功績を立てねばならないと反論した。呂蒙の母は呂蒙の心を哀れみ、それ以上何も言わなかった[2]

鄧当に仕えていた役人で年の若い呂蒙を馬鹿にする者がいた。呂蒙は怒ってその役人を斬り殺し、同郷の者を頼って逃亡したが、後に校尉の袁雄を頼って自首してきた。この事件が孫策の耳に入り、孫策は呂蒙に面会を求め、その非凡さを見抜き、側近に取り立てた[3]

数年後に鄧当が死去すると、張昭の推薦で、呂蒙が鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられてその軍の指揮を執る事になった[4]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ウィキソース出典 三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 呂蒙字子明,汝南富陂人也。少南渡,依姊夫鄧當。當為孫策將,數討山越。
  2. ^ ウィキソース出典 三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 蒙年十五六,竊隨當擊賊,當顧見大驚,呵叱不能禁止。歸以告蒙母,母恚欲罰之,蒙曰:「貧賤難可居,脫誤有功,富貴可致。旦不探虎穴,安得虎子?」母哀而捨之。
  3. ^ ウィキソース出典 三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 時當職吏以蒙年小輕之,曰:「彼堅子何能為?此欲以肉餧虎耳。」他日與蒙會,又蚩辱之。蒙大怒,引刀殺吏,出走,逃邑子鄭長家。出因校尉袁雄自首,承間為言,策召見奇之,引置左右。
  4. ^ ウィキソース出典 三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 數歲,鄧當死,張昭薦蒙代當,拜別部司馬。