趙阿哥潘

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趙 阿哥潘(ちょう あげはん、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ウー・ツァン地方を故郷とするチベット人。祖父は趙巴命。父は趙阿哥昌。

概要[編集]

趙阿哥潘の先祖はウー・ツァンの烏思蔵掇族氏の出で、北宋に帰順して趙姓を与えられ、臨洮に居住するようになった一族であった。趙阿哥潘の父の趙阿哥昌は金朝に仕えて熙河節度使に任じられていた。金朝の滅亡時、蓮花山にいた趙阿哥昌は配下とともにモンゴルに降り、コデンによるチベット侵攻が始まった際には畳州安撫使とされた。趙阿哥昌は兵乱によって荒廃した畳州の復興に努め、80歳で亡くなるまで地位を全うした[1]

趙阿哥昌の息子の趙阿哥潘はモンゴル軍に加わって四川方面軍に配属され、南宋の曹友聞と何度か干戈を交え、軍功により同知臨洮府事とされた。その後も嘉陵江から閬州に至るまでで敵軍の船300艘余りを奪い、利州攻めでは劉太尉を生け捕りにし、潼川で南宋軍を破る功績を挙げた。南宋の劉雄飛が青居山を攻撃してくると、趙阿哥潘がこれを撃退し、ついで成都まで接近して嘉定を攻略した。更に陳侍郎・田太尉といった将を捕らえ、大小50余りの戦で常に先陣を切り功績を挙げてきたことにより、皇子コデンより金甲・銀器を与えられた[2]

1252年壬子)よりクビライを司令官とする雲南・大理遠征が始まると、クビライは進軍路にあった臨洮で趙阿哥潘と出会い、その将才を見込んで摂元帥に任じ益昌での築城を命じた。南宋兵は趙阿哥潘の築城を矢石で妨害したが、趙阿哥潘は5年かけてこれを完成させた。第4代皇帝モンケ・カアンによる南宋親征が始まると趙阿哥潘は先鋒に抜擢され、安西を攻略した功績により金符を下賜され、臨洮府元帥の地位を授けられた。モンケ・カアンが合州の釣魚山に駐留する間、南宋の王堅が夜襲をかけたが、趙阿哥潘は配下の兵を率いてこれを撃退した。翌日、趙阿哥潘がこの報告を行うと、モンケ・カアンは喜んで黄金50両とバアトルの称号を授けたという[3]

1260年にモンケ・カアンが急死すると南宋遠征は取りやめとなり、趙阿哥潘は臨洮に戻った。この頃、臨洮は飢饉に陥っていたため、趙阿哥潘は私財をなげうって食糧を供給したため人々は餓えを免れたという。また、自らの有する馬100匹をジャムチ(駅伝)用の馬とし、羊1千を民間の輸送に用いさせることにより、民の負担を軽減させた。これを聞いた第5代皇帝クビライは趙阿哥潘の施策を嘉し、京兆行省に抜擢しようとしたが趙阿哥潘は辞退した。その後、兵を率いて青居山に赴いた時に南宋兵と遭遇し、戦死してしまった[4]。趙阿哥潘は良馬を好んでいたが、その中でも上質な馬を毎年朝廷に献上しており、子孫もこの慣習を受け継いだという[5]

趙阿哥潘の死後、趙ジュルジ(趙重喜)という息子が地位を継ぎ、最終的に鞏昌二十四処宣慰使の職を与えられている[6]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻123列伝10趙阿哥潘伝,「趙阿哥潘、土波思烏思蔵掇族氏。始附宋。賜姓趙氏。世居臨洮。祖巴命、富甲諸羌。父阿哥昌、貌甚偉、有力兼人、金貞祐中、以軍功至熙河節度使。金亡、保蓮花山、以其衆来帰。皇子闊端之鎮西土也、承制以阿哥昌為畳州安撫使。時兵興、城無居人、至則招逃亡立城塁、課耕桑以安輯之、年八十卒于官」
  2. ^ 『元史』巻123列伝10趙阿哥潘伝,「阿哥潘事親以孝聞、従伐蜀、与宋都統制曹友聞屡戦、勝負略相当、以破大安功最、授同知臨洮府事。斬朝天関、乗嘉陵江至閬州、獲蜀船三百艘。攻利州、生得其劉太尉、戦敗宋師于潼川。宋制置使劉雄飛進攻青居山、阿哥潘撃之、宵潰、四川大震。進逼成都、略嘉定、平峨眉太平寨、擒其将陳侍郎・田太尉、餘衆悉降。大小五十餘戦、皆先陥陣、皇子賜以金甲・銀器」
  3. ^ 『元史』巻123列伝10趙阿哥潘伝,「歳壬子、世祖以皇弟南征大理、道出臨洮、見而奇之、命摂元帥、城益昌。時宋兵屯両川、堡柵相望、矢石交撃、歴五年而城始完。憲宗出蜀、以阿哥潘為選鋒、攻安西、下之、賜金符、授臨洮府元帥。帝駐釣魚山、命州守将王堅夜来斫営、阿哥潘率壮士逆戦、手殺数十百人、堅遂引去。明日陛見、帝喜曰『有臣如此、朕復何憂』。賜黄金五十両、名曰抜都」
  4. ^ 『元史』巻123列伝10趙阿哥潘伝,「中統建元、詔還鎮臨洮。歳饑、発私廩以賑貧乏。給民農種粟二千餘石・蕪菁子百石、人頼不饑。郡当孔道、伝置旁午、有司敝于供給。阿哥潘以私馬百匹充駅騎、羊千口代民輸。帝聞而嘉之、詔京兆行省酬其直。阿哥潘曰『我豈以私恵而邀公賞耶』。卒不受。以軍事赴青居山、道為宋兵所邀、遂死于敵」
  5. ^ 『元史』巻123列伝10趙阿哥潘伝,「阿哥潘好畜良馬、常千蹄、歳擇其上驥五駟貢于朝、子孫遵之不替。先是勲臣子孫為祖父請諡者、帝毎靳之、至是勅大臣以美諡諡之、諡曰桓勇」
  6. ^ 『元史』巻123列伝10趙阿哥潘伝,「子重喜、始給侍皇子闊端、為親衛。癸丑、従世祖征哈剌章、数有功。中統元年、渾都海反、従総帥汪良臣引兵至抜沙河納火石地逆戦、以功授征行元帥。四年、従討忽都・達吉・散竹台等、克之、制必帖木児王承制、使襲父職為元帥。入覲、賜金虎符、為臨洮府達魯花赤。時解軍職而転民官者、例納所佩符。有旨『趙氏世世勤労、其金符勿拘常例、使終佩之』。重喜在郡、卲農興学、省刑敦教、以善治聞。請致事不許、詔其長子官卓斯結襲為達魯花赤。陞重喜鞏昌二十四処宣慰使。卒、諡桓襄。官卓斯結性靖退、辞官閑処二十餘年。仁宗聞其名、召不起。子徳寿、雲南左丞」

参考文献[編集]

  • 元史』巻123列伝10趙阿哥潘伝
  • 新元史』巻131列伝28趙阿哥潘伝