袁躍

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袁 躍(えん やく、生没年不詳)は、北魏官僚文人は景騰。本貫陳郡陽夏県

経歴[編集]

袁宣の子として生まれた。博学俊才で、性格は風変わりでなく、交友に篤かった。兄の袁翻は「躍は我が家の千里の駒と謂うべきなり」と評していた。司空行参軍を初任とし、尚書都兵郎中に転じ、員外散騎常侍の位を加えられた。明堂を立てるにあたって、袁躍が意見を上奏すると、当時の人々はその博識ぶりをたたえた。正光年間に柔然阿那瓌が敗れて北魏に来朝し、北魏はその帰国を支援したが、阿那瓌から北魏への朝貢の言辞はすこぶる無礼なものであった。袁躍は朝臣として阿那瓌に信書を送り、利害を説いたが、その言辞はたいへん美しいことで知られた。後に袁躍は清河王元懌の下で文学をつとめ、その文才により元懌に可愛がられた。元懌の上表文の多くは袁躍の手で書かれた。袁躍が死去すると、冠軍将軍・吏部郎中の位を追贈された。製作された文集が当時の世間に通行した。

子はなく、兄の袁翻の子の袁聿修が後を嗣いだ。袁聿修は、7歳で父を失い、9歳で青州に主簿として召された。落ちついた性格で、鑑識眼があり、欲は少なく、物を争わなかったので、おばの夫の崔休に深く賞賛された。18歳で青州中正をつとめ、尚書度支郎中を兼ねた。北斉が建国されると、太子庶子に任じられ、本官のまま博陵郡太守を代行した。

伝記資料[編集]