袁粲

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袁 粲(えん さん、永初元年(420年)- 昇明元年12月23日[1]478年1月12日))は、南朝宋官僚政治家は景倩。もとの名は愍孫。本貫陳郡陽夏県後廃帝を後見して朝政を掌握したが、蕭道成に敗れて身を滅ぼした。

経歴[編集]

袁濯(袁豹の子)と王氏のあいだの子として生まれた。幼くして父を失い、祖母がかれを哀れんで愍孫と名づけた。揚州従事を初任とした。武陵王劉駿の下で安北・鎮軍・北中郎行参軍を歴任し、侍中郎主簿となった。元嘉30年(453年)、劉駿が劉劭の乱を討つべく起兵すると、愍孫は記室参軍に転じた。孝武帝(劉駿)が即位すると、愍孫は尚書吏部郎・太子右衛率・侍中となった。孝建元年(454年)、孝武帝が群臣とともに中興寺の八関斎で昼食を終えると、愍孫はさらに魚肉を進上して食べさせようとした。このため糾弾を受けて免官された。孝建2年(455年)、廷尉・太子中庶子として再起し、右軍将軍の号を加えられた。孝建3年(456年)、西陽王劉子尚の下で北中郎長史となり、輔国将軍・広陵郡太守をつとめ、兗州の事務を代行した。

大明元年(457年)、再び侍中となり、射声校尉を兼ね、興平県子に封じられた。大明3年(459年)、山陰県の丁彖文から賄賂を受け取って、会稽郡の孝廉に推挙した罪により、免官された。まもなく西陽王劉子尚の下で撫軍長史となり、さらに再び太子中庶子となり、左軍将軍の号を加えられた。大明4年(460年)、豫章郡太守として出向した。大明5年(461年)、召還されてまた侍中となり、長水校尉を兼ねた。左衛将軍の号を受け、給事中の任を加えられた。大明7年(463年)、左衛将軍のまま吏部尚書に転じた。この年、皇太子劉子業が加冠の儀式を迎え、孝武帝が東宮で宴を開いたとき、愍孫が勧めた酒を顔師伯が飲まなかったことから争いとなり、孝武帝の怒りを買って、海陵郡太守に左遷された。

大明8年(464年)、孝武帝の崩御により前廃帝劉子業が即位すると、愍孫は御史中丞に任じられたが、受けなかった。再び吏部尚書となった。永光元年(465年)、右衛将軍の号を受け、給事中の任を加えられた。同年(景和元年)、また侍中となり、驍騎将軍の号を加えられた。同年(泰始元年)12月、司徒左長史に転じ、冠軍将軍・南東海郡太守を兼ねた。

愍孫は幼いころから荀粲(字は奉倩)の為人を慕っており、粲と改名したいと孝武帝に願い出ていたが、許可されなかった。明帝劉彧が即位してこのことを請願すると、許可を受けて粲と名を改め、字を景倩とした。泰始2年(466年)、領軍将軍となった。この年のうちに中書令に任じられ、太子詹事を兼ねた。泰始3年(467年)、尚書僕射に転じた。まもなく吏部を兼ねた。泰始5年(469年)、中書令の任を加えられ、丹陽尹を兼ねた。泰始6年(470年)、明帝が華林園の茅堂で『周易』を講義したとき、袁粲が執経をつとめた。知東宮事を兼ね、尚書右僕射に転じた。泰始7年(471年)、右僕射のまま太子詹事を兼ねた。受けないうちに、尚書令に転じた。江州刺史の江柳の罪に連座して、守尚書令に降格された。

泰豫元年(472年)、明帝の崩御にあたって、袁粲は褚淵劉勔らとともに後事を託された。後廃帝劉昱が即位すると、袁粲は朝政を後見した。元徽元年(473年)、母の王氏が死去し、葬儀を終えると、喪中にあって無官のまま職務を続けた。衛将軍の号を加えられたが、受けなかった。

元徽2年(474年)、桂陽王劉休範が反乱を起こし、反乱軍が南掖門に迫ると、袁粲は士気の低い諸将を叱咤し、褚淵とともに死命を尽くすことを表明した。このため陳顕達らが出戦して反乱軍を殲滅した。反乱が鎮圧されると、袁粲は中書監に任じられ、開府儀同三司の位を加えられ、司徒を兼ねた。元徽3年(475年)、衛将軍・開府のまま尚書令に転じた。いずれの官も固辞したが、服喪を終えると、ようやく受けた。侍中の任を加えられ、爵位は侯に進められたが、また受けなかった。この頃、袁粲は蕭道成・褚淵・劉秉とともに宮中に宿直し、朝政のすべてを決裁して、「四貴」と称された。

元徽5年(477年)7月、順帝が即位すると、袁粲は司徒・侍中のまま中書監に転じた。同年(昇明元年)8月、蕭道成は東府にあり、袁粲を石頭城に駐屯させることとした。袁粲は朝命にあまり従わず、迫られてやむをえなくなってから就任することが多かったが、このときは石頭城への移鎮を求める詔に素直に従った。12月壬申(478年1月12日)、荊州刺史の沈攸之が蕭道成打倒のために挙兵すると、袁粲はこれに呼応して石頭城で起兵した。劉秉・劉述・王蘊らが呼応して石頭城に赴いた。劉韞(劉秉の従弟)・卜伯興らが宮中で呼応したが、蕭道成に殺害された。蕭道成の部下の薛淵戴僧静らが石頭城を攻撃してくると、石頭城は陥落して、袁粲は子の袁最とともに斬られた。享年は58。

脚注[編集]

  1. ^ 『宋書』巻10, 順帝紀 昇明元年十二月壬申条による。

伝記資料[編集]