袁侃

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袁 侃(えん かん、生没年不詳[1])は、中国三国時代の政治家。字は公然豫州陳郡扶楽県(現在の河南省太康県)の人。袁渙の子。兄弟に袁㝢、袁奥、袁準。娘は荀頵(荀彧の曾孫)の妻。

経歴[編集]

袁侃は父親の風があり、議論は純粋、柔軟だが道を外れず、人と良い関係を築くのが得意だった。

同郡の何曾と名声を同じくした。太和年間(227年233年)には黄門郎から吏部郞に遷ったが、元同僚の杜恕李豊、荀俁(荀彧の三男)らと仲が良かった。明帝の頃(227年239年)、尚書選曹郞の許允と共に公職の事件に連座し投獄された。この事件は詔書によって厳しく追及され、中心人物は死罪と思われた。そのため許允は袁侃に「卿は功臣の子であるから八義[2]が適応され、死刑は免れるだろう」と語ったところ、その意を汲んで重罪を引き受けた。

袁侃は政権が不安定な時期にあって他者のように阿ることはなく、郡太守や黄門選部郞を務めて「清平」と称された。嘉平元年(249年)には尚書となっており、杜恕が程喜と同城に勤めると知ると、慎重に行動するように助言した。

司馬師が政権を握った254年頃、王基は正直の士である許允、傅嘏、袁侃、崔贊(崔寔の曾孫)らを政権に参画させるべきと推薦している。

袁侃は荀崧の外祖父にあたり、弟の袁奥に「近頃、荀頵殿の子を見ることがあったが、純粋な論理学では父に及ばないが、徳性の純粋さは先人と同様である」と語った。[3]

脚注[編集]

  1. ^ 死去年は不明だが254年まで活動が見られ、また『袁氏世紀』には早世した、とある。
  2. ^ 『周礼』を典拠とした減刑されうる八種の用例(親戚、旧知、賢者、有能、功績、高位、勤勉、賓客)
  3. ^ 『晋書』荀崧伝

出典[編集]