藤原長能

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藤原 長能(ふじわら の ながとう / ながよし、天暦3年(949年) - 寛弘6年(1009年)頃?)は、平安時代中期の歌人藤原北家長良流、伊勢藤原倫寧の子。母は源認の娘。姉(母が同じかは不明)に藤原道綱母。子に実正。姪に菅原孝標女がいる。官位従五位上伊賀守。中古三十六歌仙の1人。

花山院歌壇で活躍し、勅撰和歌集拾遺和歌集』の撰定に関与したと考えられている。門弟である能因法師が撰した『玄々集』には最も多い10首が入集している。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に51首が入集。家集に『長能集』がある。

逸話[編集]

曾禰好忠の「鳴けや鳴けよもぎが杣のきりぎりす」の歌を批判した。

花山院の歌会に参席した長能は「三月尽」の題で次のような歌を詠んだ。

「心憂き年にもあるかな二十日あまり九日といふに春の暮れぬる(=やるせない年だことよ。二十九日というのに、春が終わってしまうとは)」

その年の三月は小の月だったので、こう詠んだのである。ところが同席していた藤原公任は「春は二十九日しかないわけではあるまいよ」と言った。一月から数えれば、春は合わせて八十九日あるではないか、と歌の表現をとがめたのだ。当時の和歌の権威の一言に、長能は「ゆゆしきあやまち」を犯したと悄気て、無言のまま歌会を退出してしまった。しばらくして長能が重病に臥せっていると聞いた公任は気になって使者を遣わした。使いが持ち帰った長能の手紙にはこうあった。「お見舞い忝なく存じます。この病は外でもありません。先日貴殿が『春は二十九日しか……』云々と仰ったことに懊悩した挙句、食事も喉を通らなくなり、もはや今日明日とも知れない命です」。それから間もなく長能は死んでしまった。公任は大いに歎き「執心していた人に、うっかり不用意なことを言ってしまったものだ」と後々まで悔やみ続けたという(『袋草紙』『古本説話集』)。