蕭融

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蕭 融(しょう ゆう、泰豫元年(472年)- 永元3年3月12日501年4月15日))は、南朝斉宗室は幼達。の武帝蕭衍の弟にあたり、皇族として桂陽簡王に追封された。

経歴[編集]

蕭順之の五男として生まれた。永明元年(483年)、豫章王蕭嶷の下で大司馬行参軍をつとめた。

隆昌元年(494年)、鄱陽王蕭鏘の下で車騎行参軍となった。同年(建武元年)、太子舎人に転じた。江夏王蕭宝玄の下で車騎主簿をつとめた。ほどなく太子洗馬に任じられた。

永元2年(500年)10月、蕭融の兄の蕭懿蕭宝巻に殺害された後、蕭宝巻が蕭懿の弟たちの捜索と逮捕を命じると、蕭融は捕らえられた。

永元3年3月12日(501年4月15日)、蕭融は殺害された。散騎常侍・撫軍将軍の位を追贈され、桂陽郡王に追封された。は簡王といった。

妻子[編集]

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  • 王纂韶(473年 - 514年、王僧聡(王深の子で、王弘の弟の王虞の孫)の娘)

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子はなく、兄の蕭懿の子の蕭象が後を嗣いだ。

伝記資料[編集]

  • 蕭融墓誌
  • 梁桂陽国太妃墓誌(王纂韶墓誌)
  • 梁書』巻23 列伝第17
  • 南史』巻51 列伝第41