祝恬

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祝 恬(しゅく てん、? - 160年7月29日)は、後漢官僚政治家は伯休。本貫中山国盧奴県[1]

経歴[編集]

劉焉の師をつとめた[2]司隷校尉[3]光禄大夫を歴任した。延熹2年(159年)、司徒に上った[4]。延熹3年6月9日(160年7月29日)、死去した[5]

逸話[編集]

あるとき祝恬が車で出かけて道中で温病にかかり、医者も見つからず、汲県で立ち往生した。汲県県令の応融が駆けつけて、医薬と粥を与えて看病した[6]

脚注[編集]

  1. ^ 『後漢書注』桓帝紀
  2. ^ 三国志』蜀書劉二牧伝
  3. ^ 後漢書』黄瓊伝
  4. ^ 『後漢書』桓帝紀延熹2年8月壬午条
  5. ^ 『後漢書』桓帝紀延熹3年6月辛丑条
  6. ^ 風俗通義』窮通第七