石橋八九郎 (1862年生の実業家)

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石橋 八九郎[1](いしばし はちくろう、旧姓・中村、前名・政太郎[2]1862年9月18日文久2年8月25日[3] - 1926年大正15年)4月8日[4])は、日本実業家。石橋合名会社代表社員[2]。族籍は和歌山県平民[2][3][5]

人物[編集]

和歌山県日高郡南部町(現・みなべ町)生まれ[1]。中村六郎の長男[1][3][5]。普通学を修める[1]。先代八九郎の養嗣子となり、1889年に家督を相続し[3][5]、前名・政太郎を改める[2]

大阪に志して、綿ネル業に着目し「一大事業家になろう」として、紀州ネルを加工して防水布を調製する[1]。和歌山市新中通に綿ネル界の金融機関として紀州銀行を創立し、取締役となる[1]。一方、三共肥料会社を設置する[1]

また郷土に於いて綿ネル業を開始し、多大の信用を得て業は益々進展し、東京、大阪等に支店を設ける[1]。銀行会社の重役であり[2]、石橋合名会社代表社員、四十三銀行[4][5]、紀伊貯蓄銀行各取締役、内海紡織監査役などをつとめた[2]。住所は和歌山県海草郡塩津村[2](現・海南市下津町塩津)。

家族・親族[編集]

石橋家

養父・八九郎は安政5年、石橋家を嗣いだが、当時石橋の資産は未だ富裕ではなく、僅かに米穀と肥物を商い、唯数菜園があるのみだった[6]。八九郎が励精刻苦、家事を見るとまもなく資産は漸く富裕となった[6]

  • 養父・八九郎[2](旧姓・阪本、紀州銀行、南陽肥料各取締役)[6]
  • 妻・タミ1865年 - ?、養父八九郎の二女)[2][3]
  • 長男・八九郎1884年 - ?、前名・松太郎[2]、石橋合名会社代表社員)
  • 四男[5]
  • 長女[2]
  • 二女[5]
  • 三女・ユキ1895年 - ?、和歌山、上山市郎兵衛の長男市三郎の妻)[2]
  • 五女[5]
  • 六女[5]
  • [2]
親戚

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 『和歌山県紳士名鑑 上巻』143 - 144頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年9月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第7版』い177頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年8月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』い136頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年8月8日閲覧。
  4. ^ a b 『官報 1926年07月22日』官報 第4174号 609頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年8月31日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第3版』い237頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月14日閲覧。
  6. ^ a b c 『日本現今人名辞典』い86 - 87頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年8月31日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1903年。
  • 人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 『和歌山県紳士名鑑 上巻』和歌山市海草郡紳士名鑑編纂所、1925年。
  • 大蔵省印刷局編『官報 1926年07月22日』日本マイクロ写真、1926年。