矢野桃郎

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矢野 桃郎

矢野 桃郎(やの ももろう、1894年明治27年〉11月8日[1][2][3] - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平壌府尹、京城府尹。

経歴[編集]

東京市芝区愛宕町(現・東京都港区愛宕)に生まれる[1][注釈 1]1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、高等文官試験行政科試験に合格し、同年11月に警視庁警部となる[1][2][3]

1922年(大正11年)5月、朝鮮総督府警察官講習所教授に転じ、事務官を兼職する[1][2][3]。ついで、1924年(大正13年)12月には平安南道学務課長、1926年(大正15年)3月に平安北道財務部長、1928年(昭和3年)3月に慶尚南道財務部長を経て、同年9月、忠清南道警察部長に就任する[1][2][3]

のち1931年(昭和6年)9月に忠清南道内務部長、1932年(昭和7年)2月に忠清北道内務部長を経て、朝鮮総督府逓信事務官に転じ、1933年(昭和8年)8月に逓信局保険運用課長に発令される[1][2][3]。2年後の1935年(昭和10年)1月に全羅南道内務部長となり、翌年の1936年(昭和11年)10月6日、平壌府尹に就任した[2][3]

さらに、1941年(昭和16年)1月、京城府尹に就任[4]。翌年の1942年(昭和17年)5月、退官し、翌年の1943年(昭和18年)7月まで朝鮮馬事会(現・韓国馬事会)副会長を務めた[3]

1944年(昭和19年)5月、新居浜市助役となった[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』では牛込区生まれ。

出典[編集]

参考文献[編集]