津軽貞栄

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津軽貞栄
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享4年(1747年
死没 文化13年8月5日1816年8月27日
別名 左吉郎、多膳
墓所 青森県弘前市報恩寺
主君 津軽信寧信明寧親
陸奥弘前藩
氏族 津軽氏
父母 津軽玄栄
津軽大弐
永孚、男子、貞升
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津軽 貞栄(つがる さだえ)は、江戸時代中期から後期にかけての弘前藩士。

生涯[編集]

津軽玄栄の三男として生まれ、一族の津軽大弐の養子となった。宝暦5年(1755年)に家督および知行800石を継いだ。

安永5年(1776年)12月には書院番頭及び用人兼帯となった。天明3年(1783年)5月江戸詰めから帰国すると、飢饉の実情を見て、江戸の津軽信寧に報告した。それまでは、江戸詰めの用人大谷津四郎が権勢を奮い、国許からの報告を妨げ、対策が取られていなかった。天明2年(1782年)2月、藩主・津軽信明の命により大坂に上り、飢饉救済のために資金調達を行った。8月に信明が津軽に入ると、9月に家老に任じられた。そこで国許復興の命を受け、「寛政の改革」が行われた。天明6年(1786年)10月には金17000両を上方から調達している。しかし、一方で江戸で吉原の大門を3度も示させ、好んで着用した黒色の衣装と豪勢な金の使い方から「黒大尽」と噂された。寛政11年(1799年)4月には、このことが原因で家老を免職、7月には知行を200石減らされ800石となり、嫡子・永孚と共に蟄居となった。家督は三男・貞升が継いだ。

文化6年(1809年)12月、蟄居が解除され、城代隠居次順となった。藩主・津軽寧親は、よく城内に呼んでその功績を褒め称えて語り合ったという。藩政に貢献し、また門人も多く非常に慕われた。

参考文献[編集]

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社