泄帰泥

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泄歸泥呉音:せちぎない、漢音:せつきでい、ピン音:Xièguīní、泄帰尼とも書く。生没年不詳)は、後漢初の鮮卑族の王族。扶羅韓の子、歩度根の甥、檀石槐の曾孫。

[編集] 経歴

父が軻比能に殺害され、その勢力とともに軻比能に吸収されたが、軻比能は自分が泄帰泥の父親を殺していることから、泄帰泥には特別に目をかけたという。その後、歩度根が使者を送り、泄帰泥に誘いをかけ、泄帰泥はその部族民たちを引き連れて逃亡し、歩度根のもとに身を置いた。太和二年(228年)、護鮮卑校尉田豫は通訳の夏舎を軻比能の娘婿の鬱築鞬(うつちくけん)の部族のもとに行かせたが、鬱築鞬に殺されたので、その秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭と泄帰泥を率い長城を出て鬱築鞬を討ち、これをひどくうち破った。青龍元年(233年)になって、軻比能のほうから誘いかけて歩度根と堅固な和親関係を結んだ。こうして歩度根は泄帰泥と部族民全部をひきいて軻比能の配下に身を寄せると、幷州を犯して略奪をはたらき、役人や民衆を殺害し俘虜として連れ去った。魏の明帝(曹叡)は驍騎将軍秦朗を征伐に向かわせた。泄帰泥は軻比能に叛いて、その部族民を率いてに降服すると、帰義王の位を授かり、もとどおり幷州に居住することを許された。

[編集] 参考文献

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