殷孝祖

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殷 孝祖(いん こうそ、義熙11年(415年)- 泰始2年3月3日466年4月3日))は、南朝宋軍人本貫陳郡長平県

経歴[編集]

東晋の光禄勲の殷羨(殷浩の父)の曾孫にあたる。元嘉末年、奉朝請・員外散騎侍郎となった。武人として孝武帝に任用され、奮武将軍・済北郡太守として出向した。入朝して積射将軍となった。大明2年(458年)、北魏の天水公封敕文らが青州に進攻してくると、孝祖は孝武帝の命を受けて青州の援軍に向かい、刺史顔師伯の下で清東で魏軍を撃破した。建康に凱旋すると、太子旅賁中郎将に任じられ、龍驤将軍の号を加えられた。大明3年(459年)、竟陵王劉誕が広陵で反乱を起こすと、孝祖は沈慶之の下で劉誕を攻撃し、戦功を挙げた。西陽王劉子尚の下で撫軍府に入り、寧朔将軍・南済陰郡太守に任じられた。寧朔将軍のまま盱眙郡太守として出向した。建康に召還されて虎賁中郎将となり、寧朔将軍・陽平東平二郡太守となった。さらに済南郡太守や南郡太守を歴任した。

景和元年(465年)9月、都督兗州諸軍事・兗州刺史に任じられた。泰始2年(466年)、明帝の即位に対抗する反乱が各地で起こると、明帝は孝祖の姉妹の子の葛僧韶を孝祖のもとに派遣した。葛僧韶の説得を受けて、孝祖は2000人を率いて建康に入った。明帝から諸葛亮の筒袖鎧帽を賜った。孝祖は仮節・冠軍将軍・都督前鋒諸軍事となり、虎檻に向かって、南方の反乱軍と対峙した。兗州刺史のまま使持節・都督兗州青冀幽四州諸軍事・撫軍将軍の位に進んだ。3月3日、赭圻の反乱軍を攻撃して、陣中で矢に当たって戦死した。享年は52。散騎常侍・征北将軍の位を追贈され、秭帰県侯に追封された。泰始4年(468年)、追って建安県侯に改封された。は忠侯といった。

子は薛安都に殺されたため、従兄の子の殷慧達が封を継いだが、南朝斉が建てられると封を削られた。

伝記資料[編集]