欽慈皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

欽慈皇后(きんじこうごう)は、の皇族訛里朶の妃(正妻)。

生涯[編集]

漢名は寿昌蒲察氏中国語版の出で、母は太祖の妹であった[1]天会13年(1135年)に訛里朶が死去すると王に追封されたが、寿昌も遷妃とされた。その後、皇統6年(1146年)に冀国王妃、許王妃と進封され[1]大定元年11月16日1161年12月4日)に訛里朶の長男の世宗(生母は側妻の李氏)より「欽慈皇后」のを贈られた[2]。翌大定2年10月25日1162年12月3日)に訛里朶と並んで景陵中国語版に葬られた[2]

出典[編集]

  1. ^ a b 金史』巻六十四 列伝第二 后妃下
  2. ^ a b 『金史』巻六 本紀第六 世宗上