東忠続

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東 忠続(あずま ただつぐ、1896年明治29年)6月9日 - 1950年昭和25年)3月24日)は、大正から昭和前期の日本労働運動家[1]

経歴・人物[編集]

奈良県吉野郡十津川村に生まれる[2]同志社大学に入学し、在学中から友愛会普選運動に参加し、労働運動に関する青年組織の団長をつとめる[2][3]。東が団長をつとめた青年組織は「ボルガ団」といい、20歳前後の若者30余名で組織された友愛会京都支部の育成組織であった[4]1920年(大正9年)同志社大学を卒業すると、翌年の1921年(大正10年)関西労働同盟会の書記となり、藤永田造船所の争議を指導した廉で検挙される[2]。出獄すると、翌年の1922年(大正11年)尼崎合同労働組合組合長となる[2][3]1924年(大正13年)運動から離れ、大阪毎日新聞の記者となった[2]

脚注[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 37頁。
  2. ^ a b c d e 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『東 忠続』 - コトバンク
  3. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『東忠続』 - コトバンク
  4. ^ 大正時代の京都にあったボルガ団とはどのような団体なのか知りたい。 | レファレンス協同データベース、2019年2月16日閲覧。