朴胡

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朴 胡(ぼく こ、生没年不詳)は、中国三国時代益州巴郡の板楯蛮の王。

経歴[編集]

巴郡の板楯蛮の首領には羅・朴・督・鄂・度・夕・龔の七姓がおり[1]、朴胡はその夷王であった。この地域の住民は賦のことを賨(ソウ)と呼んだため「賨人」と呼ばれ、剽悍で歌舞も得意とした。また、楚漢戦争時に劉邦は賨人を先鋒に用いて三秦を平定したため、租賦が免じられていた[2]

建安5年(200年)、劉焉の後を劉璋が継ぐと、侮った張魯が傲慢となり、また巴夷の杜濩、朴胡、袁約らも張魯側に帰順した(巴の人々も張魯の五斗米道を信奉していた)[3]。劉璋は巴郡の反乱が続いたため、龐羲を太守に据えた。

建安20年(215年)、曹操の侵攻を受けた張魯は、陽平関の陥落を知ると降伏しようとした。その際に閻圃が「すぐに降ると軽んじられます。杜濩を頼り、朴胡のもとに赴いて、抵抗してから降伏した方がいいでしょう」と説得したため、張魯らは巴中に向かった[4]。その後、9月には夷王・朴胡、賨邑侯・杜濩、袁約[5]らは巴夷や住民を率いて帰順し、みな列侯に封じられた。11月には張魯らも曹操のもとに出頭し、閬中侯に封じられた[6]

その後、曹操は朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守に任じ、袁約を巴郡太守に任じたが、杜濩、朴胡、袁約らは黄権に撃破された。また曹操が漢中を平定した際、杜濩、朴胡、袁約の他に、李虎(李特祖父)、楊車、李黒らも帰順し、彼らは略陽県天水郡)に移住して「巴人」と呼ばれた[7]

正確な時期は不明だが、215年~219年の間に、杜濩と朴胡(王平も随行)は洛陽に詣でたことがある[8]

脚注[編集]

  1. ^ 『後漢書』南蛮伝「板楯蠻渠帥羅・朴・督・鄂・度・夕・龔七姓、不輸租賦、餘戶乃歲入賨錢、口四十」
  2. ^ 『風俗通』『晋書』李特載記
  3. ^ 華陽国志』巻2
  4. ^ 『読史方輿紀要』卷68によると(巴西郡)閬中縣の嘉陵江のあたり。
  5. ^ 『華陽国志』で袁約、『資治通鑑』で任約
  6. ^ 『資治通鑑』巻67
  7. ^ 晋書』李特載記では「巴氐」とするが『華陽国志』巻9や『太平御覧』でも「巴人」とし、そもそも巴夷は氐族ではなく、『晋書』の巴氐は巴氏の誤記ではないかと思われる。
  8. ^ 『三國志』王平伝。215年の帰順から黄権に撃破されるまでは記述が連続しているため、洛陽に向かうのはそれ以降か。下限は、漢中の戦いで王平が劉備に降っているため219年。あるいは略陽の誤りか。