徐義

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徐 義(じょ ぎ、221年 - 298年)は、西晋の皇后・賈南風の乳母。姓の「徐」は夫の徐氏から[1]青州城陽郡東武城県の人。官位とあわせて徐美人と呼ばれる。息子に徐烈。

略歴[編集]

歴史書には事績は無いが1953年に発掘された『賈南風乳母徐義墓誌銘』に詳しい事績が記されている。以下は墓誌による記述を『晋書』などで補足したもの(年齢は数え年)。

賈皇后の乳母の徐氏は諱を義といい、城陽郡東武城県の人である。九世祖は海浜地域の出であったが、郷里の荒廃により両親兄弟を亡くし、徐義は司州河内郡に流離した。そこで太原の徐氏の妻となり、その地で子供たちを厳しく養育して、聡明さや慈愛が近隣に知られた。

ある時、名家である賈充の夫人・郭槐は子が夭折することが続いたため[2]、徐義が賈南風賈午の乳母となった。彼女は姉妹を愛情深く、かいがいしく育てた。賈南風が13歳の頃、賈充は司馬炎の腹心となり、泰始6年(270年)正月に宗正の陳惶が派遣され皇太子・司馬衷の妃にたてられた。徐義は賈南風に随行して東宮に入った。(賈南風は徐義に非常に懐いており)徐義が道を論ぜねば説かず、寝食は彼女がしなければせず、遊覧も彼女が行かねば行かず、楽しい芸や音楽も彼女が見なければ見なかった。太康3年(282年)5月24日、司馬炎によって中才人(官名)を拝し、息子の徐烈は司徒の署軍謀掾に任じられた。

太熙元年(290年)4月22日に司馬炎が崩御すると、恵帝・司馬衷が帝位に登り、徐義は良人(官名)となった。永平元年(291年)3月9日、逆臣・楊駿が挙兵し国家の危機となると、楊太后(楊芷)は賈南風を呼んで側に置き、陰謀をたくらんだ。この時、宮人は恐れおののいたが、徐義は嘘でその場を誤魔化し賈南風の窮地を救うことができた。楊駿が誅殺されると功績を評価され美人(官名)を拝し、絹千匹、従者20人を下賜された。その後も皇后に信頼され、諸事を徐義に頼み待遇も厚かった。また元康5年(295年)2月の詔勅により、息子の徐烈が太子の千人督に任じられた。しかし、297年7月に病に伏せるようになり自宅で療養することになる。

朝廷からは朝夕に宦官が様子を訪ね、宮中の医者や官吏の程拠、劉琁らも見舞いに送られた。また薬や飲食物、珍奇な宝物なども贈られたが元康8年(298年)に78歳で死去した。皇后の追慕は深く、秘器や衣服、500万銭、絹500匹が下賜され葬儀が行われた。また翌年に墓碑が刻まれた。

脚注[編集]

  1. ^ 本来は別に姓があったはずだが、幼少期の境遇で失ったか
  2. ^ 『晋書』賈充伝より、郭槐は夫が乳母と仲良くしている場面を見て私通を疑い殺したため、懐いていた男児が哀惜で死ぬということが二度あった。

参考文献[編集]

  • 晋書
  • 『賈南風乳母徐義墓誌銘』