後部高笠麻呂

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後部高 笠麻呂(こうほうこう かさまろ)は奈良時代官人はなし。姓は、名は笠万呂とも記される[1]位階従五位下東大寺造営の金工であったとされている。

出自[編集]

「後部」は高句麗の五部の一つに由来し、「高」は高句麗の王族の姓である。『新撰姓氏録』「左京未定雑姓」によると、「高麗国人正六位上後部高千金之後也」とある。同「右京未定雑姓」には、「高麗国人後部乙牟之後也」となっている。また、天平宝字5年(761年)3月に、半島系の帰化人に新しい姓を与えたという記事があり、その中で髙麗人(高句麗人)の後部高呉野が大井連の氏姓を与えられたという記事がある[2]

経歴[編集]

大仏開眼会のためのものと考えられる金銅雲花形哉文の銘文、「東大寺 高笠万呂作 天平勝宝四年(752年)四月九日」とあり[1][3][4]、同一人物とされている。「後部高笠麻呂」としての初出は、天平勝宝9歳(757年)の西南角領に、左京六条二坊戸主で正六位下と見える[5]

続日本紀』には、孝謙朝の天平宝字元年(757年)9月、正六位上から従五位下に昇叙したとある[6]のが唯一の記録である。

天平宝字年中の生打の経紙を返進する啓状に「高笠麻呂」とある[7]

官歴[編集]

続日本紀』による。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『寧楽遺文』下巻972頁
  2. ^ 『続日本紀』巻第二十三、廃帝 淳仁天皇 天平宝字5年3月15日条
  3. ^ 『正倉院御物銘文集』
  4. ^ 正倉院御物の銘識に現れた人々
  5. ^ 『大日本古文書』十三 - 220頁
  6. ^ 『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平宝字元年9月6日条
  7. ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 348頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]