広岡浪秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

広岡 浪秀(ひろおか なみほ、天保12年1月1日1841年1月23日) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、幕末尊皇攘夷志士長州藩大嶺神社(美祢市)の神主。諱は正恭。変名、広分彦也

尊皇攘夷を志した広岡は、文久3年(1863年)の八月十八日の政変後、関西から関東までを遊説。長州藩の賊軍汚名返上に尽力して廻っていたが、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇して負傷。池田屋を逃れて長州藩邸付近で絶命した。享年24。京都大和小路三条縄手の三縁寺に埋葬される。

大正4年(1915年)、従五位を追贈された[1]

脚注[編集]

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37