川勝広克

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川勝広克
時代 江戸時代中期
生誕 元文元年(1736年
死没 寛政3年1月21日1791年2月23日
別名 登、主殿、勘兵衛(通称)
戒名 萬夢(法名)
墓所 東京都港区赤坂の法安寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 本姓:秦氏秦河勝後裔
名字:川勝氏
父母 父:片桐友晴、母:某氏
養父:川勝広典
兄弟 川勝広克
正室:川勝広典の養女(川勝広達の娘)
婿養子に川勝広永永井直令の六男)、
養女(谷衛明の娘、川勝広永室)、女子、
女子、女子

川勝 広克(かわかつ ひろかつ)は、江戸時代中期の旗本。知氏系重氏流川勝家の7代当主。

生涯[編集]

元文元年(1736年)、片桐友晴の二男として江戸に生まれ、後に川勝広典の婿養子となった。明和元年(1764年)9月朔日、初めて将軍徳川家治に謁見した。安永6年(1777年)7月10日、小姓組に列した[1]

安永9年(1780年)7月5日、義父広典の死去により、その家督(下野常陸内700石)を継いだ。田沼時代[2]を生きた人物。寛政3年(1791年)正月21日、56歳で没した。家督は婿養子の広永が継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 小姓組は書院番とともに両番といわれ、実力のある者には栄達の途が開かれていた。
  2. ^ 田沼時代には貨幣経済・商品経済が発展し、幕府財政への貨幣収入の道が開かれた。

参考文献[編集]

  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年

関連項目[編集]

先代:
広典
川勝知氏系重氏流
7代:1780年 - 1791年
次代:
広永