岡部長常

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岡部 長常(おかべ ながつね、文政8年(1825年) - 慶応2年12月1日1867年1月6日))は、江戸時代末期(幕末)の徳川幕府幕臣長崎奉行外国奉行大目付神奈川奉行軍艦奉行。幼名は彦十郎。兵衛尉、右兵衛尉、駿河守。父は太田運八郎。養父は岡部長英

経歴[編集]

安政4年(1857年)12月、長崎奉行に就任。在任中には日蘭修好通商条約の締結交渉を行い、また医学や外国語学の普及に尽力したといわれる。

文久元年(1861年)11月に外国奉行、翌文久2年(1862年)6月に大目付に転任。文久3年(1863年)4月には徳川慶喜に随従していた際、刺客に襲撃されるが難を逃れた。同年12月に作事奉行、元治元年(1864年)11月に神奈川奉行、慶応元年(1865年)閏5月に軍艦奉行、7月に清水小普請組支配となり、8月に辞職。

慶応2年(1866年)に死去。享年43。

長崎奉行として長崎に在任中、稲佐の地に丸山町と寄合町遊女が出張してロシア人の船員達の相手を務めることになった。それに対してロシアの海将ビリレフが、遊女の梅毒検査をすることを要求してきた。長常は、当時長崎に来ていた松本良順に対応を諮問し、それに対して良順は受けるべきと回答した。これにより、万延元年(1860年)、日本初の梅毒検査が長崎で実施されることになった。

関連項目[編集]