山内豊清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山内 豊清(やまうち とよきよ、延宝5年(1677年) - 宝暦6年8月3日1756年8月28日))は、江戸幕府旗本

土佐中村藩3代藩主山内豊明の三男で、本藩分家筋の旗本山内之豊の養子となる。正室は池田政言の娘。子は山内豊救(長男)、青木直旧室(長女)、伝三郎(次男)、千代之助(三男)の他女子3人。通称は主膳、大次郎。

元禄4年(1691年)、養父・之豊の遺跡を継ぐ。元禄10年(1697年)には上総国で3000石を与えられ、後に常陸国に移される。宝暦6年(1756年)没し、兄山内豊成の四男で、養子の豊産が相続した。法名は道毅、墓所は曹渓寺(東京都港区)。

青木義正は大正7年、『土佐史壇』の中で赤穂浪士の一人寺坂信行が晩年、この曹渓寺の寺男をしていたことが縁で豊清に仕え、武士身分となった[1]と記しているが、「主膳」でなく「摂津」としていたり、時系列で辻褄が合わない点もあり異論も多い[2]

脚注[編集]

  1. ^ 『土佐史壇』青木義正著、第2号(大正7年)
  2. ^ 赤穂市史編纂室主幹「赤穂四十七士列伝」