対馬要塞重砲兵連隊

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対馬要塞重砲兵連隊(つしまようさいじゅうほうへいれんたい)は、1941年から1945年まで、日本の長崎県対馬にあった沿岸砲兵隊である。前身は鶏知重砲兵連隊対馬要塞の主力戦闘部隊で、対馬海峡を通航する艦船・航空機に対する防衛を任務とした。第2次世界大戦の敗戦により解散した。

歴史[編集]

関特演にともなう動員・改称[編集]

対馬要塞には鶏知重砲兵連隊があり、平時編制で2個中隊を擁して対馬の中心部に位置する雞知町に衛戍していた。対馬各地の砲台は無人か対馬要塞司令部の監守(通常1名の管理員)がいるだけであった。

1941年(昭和16年)7月9日、西部軍司令官は、対馬要塞に演習を装って準戦備を実施するよう命令を下した[1][2]。命令を受けた鶏知重砲兵連隊は、動員によって集まった応召者を入れて兵力を増し、砲台に部隊を配置して、7月21日に対馬要塞重砲兵連隊として戦時編制に移行した[3][4]。3個大隊、9個中隊の編制である[5]。連隊の変更は軍令陸甲第81号によるもので、11月30日に編成が完結した[6]。別に、対馬要塞防空隊(2個中隊)と、第66要塞歩兵隊(4個中隊)も編成された[7]

この動員は、ソ連攻撃の機会を窺う関東軍特種演習にともなうものである。結局対ソ開戦はなかったが、部隊はそのまま準戦時動員にとどまり、教育訓練を実施してから待機状態に入った[8]

太平洋戦争[編集]

1941年(昭和16年)12月に日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告した。対馬付近の海域では、敵潜水艦の出没や被害の情報が流れたが、砲台からの発見や交戦はできなかった。

1944年(昭和19年)11月23日、重砲兵連隊は初めて交戦した。午前8時45分頃、2隻で航行中の貨物船のうち1隻が爆発、沈没した。潜水艦の攻撃と考えたが、砲台からは敵を発見できなかった。もう一方の貨物船からの射撃を認め、その着弾点付近に向け14発を射撃した。貨物船1隻は無事に通過した[9]

1945年(昭和20年)に連隊は陣地強化と現地自活(畑作業)にあたるようになった[10]。しばしば敵機を見たが、こちらから攻撃はできず、6月4日に監査のため移動中の主計軍曹1人が戦死した[11]

8月14日、本格的な戦闘を経験しないまま、連隊は終戦を迎えた。この時点での兵力は約1400人であった[12]。島外出身者は9月29日と10月1日に乗船して帰郷し、10月4日に島内出身者も自宅に帰った。残留の数名は対馬兵団特設司令部に転属になり、10月4日をもって部隊の復員(解散)が完了した[13]

年表[編集]

  • 1941年(昭和16年)7月6日 動員命令が下る[2]
    •     7月21日 戦時編制の動員完結[4]
  • 1943年(昭和18年)10月8日 姫神山監視哨が貨物船の前方に水柱を発見[14]
    •     11月18日 竜崎砲台が正面に水煙を認める[15]
  • 1944年(昭和19年)3月12日 対馬北端で船舶が雷撃で損害を受けた[16]
    •     6月16日 対馬西端の高射砲射程外を敵機が通過[17]
    •     11月23日 貨物船を沈めた敵潜水艦に射撃[11]
  • 1945年(昭和20年)6月4日 敵航空機の攻撃を受け綱田主計軍曹が戦死[11]
    •     8月14日 停戦の玉音放送を聴く[18]
    •     8月21日 連隊本部で御真影などの奉焼式を行った[19]
    •     9月18日 各隊で復員式を挙行した[20]
    •     9月29日 第1回の復員者450人が海軍の掃海艇6隻に分乗して帰郷した[20]
    •     10月1日 第2回の復員者751人が帰郷した[20]
    •     10月4日 第3回の復員者163人がそれぞれ島内に帰宅した[13]

部隊構成[編集]

  • 連隊本部
    • 第1大隊
    • 第2大隊
    • 第3大隊
      • 第1から第9中隊(どの大隊に属したかは不明)

歴代連隊長[編集]

  • 下遠甲太郎 砲兵中佐→大佐 1940年6月6日(鶏知重砲兵連隊の連隊長として)[21] - 1942年8月1日[22]
  • 小山鉄郎 陸軍大佐 1942年8月1日[22] - 1943年8月2日[23]
  • 垣内八洲夫 重砲兵中佐 1943年8月2日[23] - 1945年10月4日

脚注[編集]

  1. ^ 『陸支密大日記』、第50号第 2/3、昭和16年。「西部軍命令」 アジア歴史資料センター Ref.C04123440200 。
  2. ^ a b 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第43年 昭和16年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013100 、128頁。
  3. ^ 正確な改称日は不明。
  4. ^ a b 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第43年 昭和16年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013100 、130頁。リンク先の3コマめ。
  5. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第43年 昭和16年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013100 、142 - 145頁。リンク先の15コマめ以降。
  6. ^ 『陸支密大日記』第61号(昭和16年、3/3)。「編制改正(編成)部隊編成完結の件」 アジア歴史資料センター Ref.C04123597100?I 。
  7. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第43年 昭和16年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013100 、146 - 147頁。リンク先の19コマめ以降。
  8. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第43年 昭和16年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013100 、130 - 132頁。リンク先の3コマめ以降。
  9. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第46年 昭和19年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013400 、214頁。リンク先の8コマめ以降。
  10. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第47年 昭和20年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013500 、235 - 236頁。リンク先の7コマめ以降。
  11. ^ a b c 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第47年 昭和20年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013500 、236頁。リンク先の8コマめ。
  12. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』に記される復員者の合計が1364人。他に若干名が対馬兵団特設司令部に転属したというので、約1400人とする。「創立第47年 昭和20年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013500 、247 - 248頁(リンク先の19コマめ以降)。
  13. ^ a b 創立第47年 昭和20年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013500 、247 - 248頁。リンク先の19コマめ以降。
  14. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第45年 昭和18年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013300 、174頁、リンク先の9コマめ。
  15. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第45年 昭和18年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013300 、175頁、リンク先の10コマめ。
  16. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第46年 昭和19年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013400 、210 - 211頁。リンク先の4コマめ以降。
  17. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第46年 昭和19年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013400 、212頁。リンク先の6コマめ。
  18. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第47年 昭和20年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013500 、238頁。リンク先の10コマめ。
  19. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第47年 昭和20年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013500 、240頁。リンク先の12コマめ。
  20. ^ a b c 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第47年 昭和20年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013500 、247頁。リンク先の19コマめ。
  21. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第42年 昭和15年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013000 、125頁。リンク先の3コマめ。
  22. ^ a b 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第44年 昭和17年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013200 、153頁。
  23. ^ a b 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第45年 昭和18年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013300 、187頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]