孟建

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孟建

征東将軍
出生 生年不詳
豫州汝南郡
拼音 Mèng Jiàn
公威
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孟 建(もう けん)は、中国後漢末期、及び三国時代の政治家。公威本貫豫州汝南郡諸葛亮の友人で、石韜徐庶・崔州平と共に諸葛四友と呼ばれる。

生涯[編集]

建安年間の初め、諸葛亮・石韜・徐庶らと共に荊州へ遊学した。諸葛亮以外の3人は学問を精密に追求したのに対し、諸葛亮だけは大略を理解することに努めた。

ある時、孟建は故郷を偲び、北方へ帰ることを望んだが、諸葛亮からは「中国(中原の意)には士大夫が沢山いる。遊び歩く場所は何も故郷に限らんだろう」と引き止められた。諸葛亮はまた孟建ら3人を「君たちは出仕すれば刺史太守には至るだろう」と評していた。3人は、諸葛亮自身はどうかと尋ね返すと、彼はただ笑うだけで答えなかった。

孟建は魏に仕え、涼州刺史となると[1]、その優れた統治により名声を得た。官位はさらに征東将軍にまで昇った[2]

諸葛亮は敵国である蜀漢丞相となったが、魏の使者として杜襲を迎えた時には「公威(孟建)に宜しく」と伝えている[3]

三国志演義[編集]

羅貫中の小説『三国志演義』では孟公威の名で登場する。非凡にして重厚な容貌。

石広元(石韜)と共に詩を吟じていたところ、「臥龍先生」(諸葛亮)を探す劉備と出会い、臥龍宅に同行しないかと誘われるが、これを拒否する[4]

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 萬斯同『魏方鎮年表』では涼州刺史就任を黄初4年(223年)とする。
  2. ^ 『三国志』魏書 温恢s:zh:三國志/卷15#孟建
  3. ^ 『三国志』温恢伝注『魏略
  4. ^ s:zh:三國演義/第037回