孔皇后

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孔皇后
後唐の皇后
在位 933年 - 934年

別称 哀皇后
死去 934年
配偶者 閔帝
子女 李重哲 他男子3人
父親 孔循
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孔皇后(こうこうごう、? - 934年)は、五代十国時代後唐の閔帝李従厚の皇后。諡号哀皇后(あいこうごう)。

生涯[編集]

父は後唐の枢密使孔循(元は後梁の太祖朱晃の仮子の朱友譲の仮子)。孔循は安重誨と結託しながらも、密かに安重誨に嫉妬していた。明宗は安重誨の娘を皇子の李従厚と娶わせようとしたが、孔循が安重誨に「あなたは枢密使ですので、皇子との婚姻は政略結婚を疑われます」と異議を唱えた。安重誨は縁談を遠回しに断った。しかしその後、孔循は王淑妃(明宗の寵妃)に多額な賄賂を贈って、自分の娘の孔氏を李従厚に嫁がせた。安重誨は腹を立てた。

李従厚に嫁いだ孔氏は魯国夫人となり。男子を4人産んだ。閔帝が即位すると、孔氏は皇后に立てられたが、正式な儀式を行わないうちに、明宗の養子である李従珂(末帝)が鳳翔で挙兵した。閔帝は洛陽を脱出して衛州に逃れ、孔氏と息子らは洛陽に残った。末帝が即位すると、閔帝に殺害された子女ら(李重吉と李恵明)の仇討のため、孔氏と息子らは賜死とされた。

石敬瑭後晋を建てた後、皇后として正式に認められ、「哀」のを贈られた。

男子[編集]

  • 李重哲、他3人
    いずれも末帝に賜死とされた。

伝記資料[編集]