奥平貞幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥平 貞幹(おくだいら さだもと、享保19年11月27日1720年1月6日) - 安永3年1月8日1774年2月18日))は、伊予松山藩家老、奥平藤左衛門家5代当主。

父は奥平貞継。子は奥平貞教通称は藤五郎、藤左衛門。

生涯[編集]

享保4年(1720年)11月27日、松山で生まれる。享保17年(1732年)、享保の大飢饉における藩政の不始末の責任を問われ、父貞継が蟄居を命じられる。享保19年(1734年)、新知1500石を賜り、大名分嫡子並とされる。享保21年(1736年)、蟄居処分を解かれ、父貞継が大坂表に立ち退く。寛保元年(1741年)8月、父貞継の政敵であった家老奥平貞国が、久万山騒動(久万山地域の領民が大挙して大洲藩に逃散する事件)の責任を負わされて流罪となる。同年12月、家老、組頭となり与力を預かる。寛保2年(1742年)4月、大坂表より、貞継が帰藩し家老に復帰。宝暦8年(1758年)、軍用方を兼任。宝暦10年(1760年)、500石の加増を受ける。宝暦13年(1763年)、藩主松平定功の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家治に拝謁。明和2年(1765年)、藩主松平定静の家督相続の御礼言上の際に、将軍家治に拝謁する。

安永2年(1773年)、父の隠居によりその知行3500石のうち1500石を相続し、知行3500石となる。

安永3年(1774年)1月8日死去。享年56。家督は嫡男の貞教が相続した。

参考文献[編集]

  • 『松山叢談』