奥園国義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥園國義から転送)

奥園國義(おくぞのくによし、1925年 - 2013年)は、日本剣道家(範士段位は九段を取得するも、後に返上)。 選手として活躍を経て大阪府警察師範近畿管区警察学校教授、全日本剣道連盟副会長、桃山学院大学剣道部師範、大阪星光学院講師などを歴任。

経歴[編集]

人物[編集]

鹿児島県薩摩郡樋脇村で七人兄弟の三男として誕生。小学校時代に剣道を始め以後、宮之城農蚕学校、海軍航空隊予科練時代も稽古に没頭し研鑽を積む。

18歳の時戦争が始まり土浦の海軍航空隊に入隊を志願する。辞令に従い飛行機操縦の教官として滋賀県の比叡山に置かれた航空隊へと赴く。航空隊では、武道大会が恒例として催されており、その時初段だった奥園は飛行科の個人戦で準優勝する。 その戦績が剣道好きの飛行隊長の目に留まり、ある日進路先を聞かれた際、南方の劣勢を知っていた奥園は南方を希望した。隊長は少し渋い顔つきになりじっと考え込んだが、「俺に任せろ」と一言。

その後一年も経たない昭和19年になると戦況は悪化し、教官どころではなくなり特攻隊要員として神雷特別攻撃隊「桜花 (航空機)」隊員に編入し、幻の特攻基地と呼ばれた比叡山山頂の宿坊で待機する。

特攻機は桜花 (航空機)K-1と命名された物で、いわゆる人間爆弾で片道分の燃料しか積んでいない飛行機に乗る事になる。

5月の中旬に第一次出撃隊は出撃し、敵艦を発見し特攻機のロケット噴射が始まると待機室にはトントントンと特攻機からの無線音が聞こえる。初めはゆっくりと、その音が段々と早くなって、ツ、ツ、ツ、ツ、ツーと鳴り出して突然途絶える。 敵艦に当たったかどうかは定かではないが、突っ込んで死んだという事は事実で、壁に並べられた名札に赤線が引かれました。 こうして第一次隊員は戦死してしまいました。

その後、第二次出撃隊員となった私はいつ死んでもいい様に身辺整理を済ませ、遺書も書き終え、毎朝下着を整えながら出撃に備えた毎日を過ごしていた。 第二次隊の出撃も間もないと言う8月15日の朝、突撃隊員総員集合と召集の放送があり、出撃準備をして、集合場所に駆けつけると、戦争終結の玉音放送が流れ、戦争が終わったと言う意味だけは、呆然と聞き取れました。 40人居た仲間の三分の一は南方戦線で死にました。向かう途中で船が沈んだ友もいる。多くの友が戦死していた事を知った時、私の内地配属があの時の飛行隊長の配慮であった事がわかりました。 有り難くて深く頭が下がり、剣道初段にも感謝致しました。

死を覚悟した日々を過ごして来た者が生きなければならなくなった。暫くして、漸く気持ちが吹っ切れると戦死した友の分まで生きて日本の復興に尽くそうと言う決心をつけることが出来るようになった。

死から生へ、これこそ、私の人生にとって一番の転機となる。二十歳前後の体験だった。 京都から鹿児島へ帰る帰郷の列車で、一晩で大事にしていた物はすっかり盗まれ身一つで復員した。その時の事がきっかけで、警察官を志すことになる。

昭和28年大阪府警本部の剣道特練生となり本格的な剣道を始める。そこで、本当に厳しくみっちりと鍛え上げられた。 私にとっての剣道の修行は昔も今もこれからも、変わる事なく自分に克つこと。三昧の稽古に励むこと。

由利滴水という禅師が山岡鉄舟先生に出した公案に「両刃交鋒不須避」りょうじんこうぼうさくるをもちいず

と言うのがあります。九段昇段の記念に作った手ぬぐいにも書いてあります。両刃交鋒とは一足一刀生死の間ですが、この間において、心を動かさない。つまり、集中して一切の雑念を入れないという教えですが、その様な心境になって、剣道の修行を続けて行きたいと願っています。「三昧になれ」難しく厳しいですが、、、。

—  本人の手記より