坂本清次郎

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坂本 清次郎(さかもと せいじろう、天保12年(1842年) - 明治36年(1903年))は、幕末期の土佐藩出身の志士明治期の自由民権運動家。

本名は鎌田清次郎で、明治期に三好賜三好清明と改名した。

略歴[編集]

天保12年(1842年)、 土佐藩陪臣鎌田実清坂本幸の母・久の姉妹の井上好春の娘の二男として生まれる。

文久3年(1863年)、12歳で幸の息子の土佐藩郷士・坂本権平の娘・坂本春猪と結婚して権平の養子となる。この頃、五十人組に参加した経歴がある。

元治元年(1864年)に長女・鶴井慶応元年(1865年)次女・兎美が産まれるが、慶応3年(1867年)に脱藩して叔父の坂本龍馬海援隊に参加した。妻子を残して脱藩した清次郎に対しての龍馬の評価は手厳しく、龍馬の姉乙女への手紙には「何も思惑のない人」と書いている。

龍馬は坂本家に迷惑がおよばないよう、後藤象二郎に相談したり、土佐へ帰国するよう促すなどしている。

明治3年1870年)、土佐へ帰国するが、脱藩罪を問われ禁足にあう。赦免後、実家の兄・鎌田儀蔵が病死していたことから坂本家を離れ、鎌田家を継いた。

以後、自由民権運動に参加したり、三好賜(後に清明)と改名したりする。また、その後はさらに長男・坂本直寛の妻となる長女・亀代をもうける。

鎌田家を継いだ後も娘婿の坂本直寛宅に同居していたが、明治23年(1890年広島市へ移住し、その地で明治36年(1903年)に死去した。