勝命雅

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勝 命雅
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝永7年(1710年[1]
死没 安永6年8月23日1777年9月24日[2]
改名 :命雅
別名 通称:末之丞、市郎右衛門
墓所 赤城の清隆寺?
幕府 江戸幕府
氏族 物部姓近江勝氏
三浦氏
娘(塩谷奉正の妻)、娘(青木長国の娘)、娘、勝曹淓
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勝 命雅(かつ のぶまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての御家人旗本。旗本勝家の当主。鉄砲玉薬同心から昇進して広敷番頭になる。

勝海舟高祖父である。また外孫に塩谷正房大岡義方がおり、幕末大奥御年寄である瀧山の曾祖父、小納戸役塩谷正路の高祖父でもある。

生涯[編集]

近江国坂田郡勝村を発祥とする物部姓勝家の出で、天正3年(1575年)より徳川家康に仕えて鉄砲玉薬同心となった御家人の勝時直(市郎右衛門)から4代目の勝家当主となり、初めは歴代同様に鉄砲玉薬同心となる。

その後、表火番から支配勘定に転じて、宝暦2年(1752年)に御家人から旗本に家格を進めて、材木石奉行となる。明和5年(1768年)に広敷番頭に就任する。

安永6年(1777年)に死去。享年68。息子の勝曹淓(安五郎)が家督を継ぐ。

脚注[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜に記載の享年からの逆算
  2. ^ 勝家の菩提寺・清隆寺の過去帳では安永6年(1777年)7月27日勝部真長新装版 勝海舟 下

参考文献[編集]

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第3』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1964年)
    • 寛政重修諸家譜 巻百五十二
  • 『新訂寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1964年)
    • 寛政重修諸家譜 巻千五百一