劉延 (城陽王)

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劉延(りゅう えん)は紀元前2世紀、古代中国の前漢時代の城陽王である。生年不明。没年は元狩6年(紀元前117年)。死後、頃王(けいおう)とされた。

父は城陽王の共王劉喜[1][2]。子に劉義劉昌劉発劉差劉方劉沢劉敢劉景劉譲劉光劉雲劉余劉寿劉応劉強劉息劉禹劉類劉賢劉不疑がいた[3]

劉延は父の死により孝景後元年(紀元前143年)に城陽王になった[1]。26年後の元狩6年(紀元前117年)に死に、子の劉義が城陽王を嗣いだ[1][2]。翌元鼎元年(紀元前116年)に、他の19人の子が一斉に列侯に封じられた[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『漢書』巻14、諸侯王表第2。斉悼恵王肥以下。
  2. ^ a b 『漢書』巻38、高五王伝第2。ちくま学芸文庫版『漢書』4、266頁。
  3. ^ a b 劉義を除き、『漢書』巻15上、王子侯表第3上、麥侯昌の行以下。列侯に封じられた子である。他に女子や夭折の子がいたとしても含まれない。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 劉延 - 同名の人物の一覧