劉喜 (城陽王)

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劉喜(りゅう き)は紀元前2世紀、古代中国の前漢時代の城陽王淮南王である。生年不明。没年は景帝中元6年(紀元前144年)。死後、共王(きょうおう)とされた[1][2]

父は呂氏討滅に功があった朱虛侯・城陽王の景王劉章[1][2]。子に劉延劉豨劉吉劉壮がいた[3]

劉喜は父の死により孝文4年(紀元前177年)に城陽王になった[1][2]。8年後、孝文12年(紀元前169年)に、国替えさせられ、淮南王となった[1][2]。孝文15年(紀元前165年)か16年(紀元前164年)に元の城陽王に戻った[4]。王になってから33年後の景帝中元6年(紀元前144年)に死んだ[5]

翌年の孝景後元年(紀元前143年)に子の劉延が城陽王を嗣いだ[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『漢書』巻14、諸侯王表第2。斉悼恵王肥以下。
  2. ^ a b c d 『漢書』巻38、高五王伝第2。ちくま学芸文庫版『漢書』4、266頁。
  3. ^ 劉延を除き、『漢書』巻15上、王子侯表第3上、雷侯豨の行以下。列侯に封じられた子である。他に女子や夭折の子がいたとしても含まれない。
  4. ^ 『漢書』諸侯王表は淮南への国替えから4年、高五王伝は5年で復したと記す。
  5. ^ 『漢書』諸侯王表と高五王伝がいう即位後「33年」から計算した。諸侯王表が記す子の劉延即位の「孝景後元年」と1年ずれる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 劉喜 - 同名の人物の一覧